杓谷技研というマーケティング支援会社の代表を務めております杓谷 匠(しゃくや たくみ)と申します。この記事では、アタラ株式会社会長の佐藤康夫さんのご協力のもと、2024年9月5日(木)に連載を開始した「インターネット広告創世記 ~Googleが与えたインパクトから発展史を読み解く〜」の第4話をお届けします。なお、本連載は、株式会社インプレスが運営するWeb担当者Forumでも同時に公開しています。
前回の記事はこちらです。
「Macintosh」(マッキントッシュ)が社内に導入されて
杓谷:1990年に「クレアティビタリア」というイタリア関連の展示会を成功させ、翌年の1991年からイタリア貿易振興会と「アビターレイタリア」という建築関連のプロジェクトを進めていくところまでお聞きしました。当時の社会状況としては、1989年12月に日経平均株価が最高値を更新した後、翌年の1990年に株価が急落していわゆる「バブル崩壊」が始まります。その翌年の1991年はソ連崩壊や湾岸戦争など、世界史に残る出来事がたくさん起こった年ですね。
佐藤:旭通信社国際部の三菱自動車工業のチームに在籍しながら上司の特別な計らいで1991〜1993年頃までイタリア貿易振興会の「アビターレイタリア」の仕事をしていたのですが、バブル崩壊の影響が少し遅れてやってきて、プロジェクトが徐々に縮小していく方向に向かってしまいました。一方で、この1991〜1993年頃は仕事にコンピューターが導入されはじめ、働き方が大きく変わっていきました。
私が在籍していた旭通信社の国際部は、米国の広告代理店BBDOと提携しており、米国のアップルコンピュータ(現Apple Inc.)の日本法人設立当初からお取引があった関係で、国際部全体に「Macintosh」(以下Mac)が導入されていました。
丁度この頃、Macのディスプレイ画面がカラーになりました。画面に色がついたことで「Adobe Photoshop」「Adobe Illustrator」「QuarkXPress」(クォーク・エクスプレス)など、デザイナーにとっての三種の神器のようなソフトウェアが登場し、コンピューターを使って印刷物を制作する「DTP」(「Desk Top Publishing」 の略)が広まっていきました。コンピューターを使って音楽を制作する「DTM」(「Desk Top Music」の略)もこの頃から始まりましたね。
三菱自動車工業のチームにもたくさんのMacがあったので、「こんなことができるんだ、おもしろいな」と思って僕もMacをさわるようになりました。実際に何をやっていたかというと表計算ソフトの「Excel」や「MacDraw」というグラフィックソフト、「Aldus Persuasion」(アルダス・パースエージョン)というプレゼンテーションソフトを使って企画書を作るといった程度のことなのですが(笑)。ワープロが世の中に普及する前からドキュメントソフトを使って書類を作成し、FAXで送るというようなことをしていましたね。
杓谷:私の世代は驚いてしまうのですが、マイクロソフトの「Excel」は最初はMac用のソフトウェアとして開発されたんですよね。「Aldus Persuasion」は今でいうと「PowerPoint」のようなソフトですね。1994年にAdobeが買収し、Windows版も販売されましたが、1997年に製品開発を終了しました。
また、ワープロ(ワードプロセッサの略)は1978年に東芝が630万円で販売を開始したのが始まりですが、一般家庭にまで本格的に普及したのはこの記事の時代の少し後ですね。インターネット商用利用解禁後のパソコンの普及と性能の向上によって、「Word」に代表される文書作成ソフトにシェアを奪われていくことになります。ワープロの本格的な普及の前で、パソコン自体の普及率も低い中で、すでにパソコンで書類を作成しているのはこの時代にはとても先進的ですね。
イギリスから送られてきた謎の小包
佐藤:そんなある日、ひとつの事件がありました。国際部の三菱自動車工業のチームでは、マーケティング用語で「CI」(「Corporate Identity」の略)と呼ばれる、企業文化を表現するイメージやデザインをイギリスのデザイン会社に発注していたのですが、ある日、そのイギリスの会社から弁当箱サイズの小包がが送られてきました。
関係者みんなが「なんだこれは?」といった様子でわけがわからないので、社内のコンピューターに詳しい人間に訊ねてみると、「きっと中に『リムーバブルハードディスク』が入っていて、データが入っているのだろう」ということでした。さっそくMacにつなげてみると中身は「Illustrator」と「Photoshop」のファイルで、ショールームの写真の上にコーポレート・サインがカッコよくレイアウトされていて、社内のメンバーが一様に衝撃を受けました。
当時販売されていたリムーバブルハードディスク。幅24.5センチ、奥行き24.3センチでまさに弁当箱サイズ。LHD-M100 記憶容量100MB、価格180,000円。出典:Logitec ハードディスクの歴史館。© Logitec Corp. ※画像は2024年10月時点でウェブサイト上にあるのものです。リンク先の情報は今後変わる可能性があります
佐藤:当時はこのようにデータでデザインを納品するといった習慣が日本にはまだ多くなかったので、これはおもしろいし便利だし今後広がっていくだろうなと思いましたね。Macにさらに興味を持つきっかけとなりました。
杓谷:デザインが印刷物ではなくデータで納品されるということが新鮮だったわけですね。「リムーバブルハードディスク」は英語の「Removable Hard Disc」のことで、取り外しできる外付けのハードディスクのことですね。USBメモリやSDカードなどでファイルを共有することはありましたが、ハードディスクでデータを共有するというのはこの時代ならではかもしれませんね。
佐藤:この頃MO(Magneto-Optical Disk)という記録可能なCDの様なものも普及してきました。これもSCSI接続でMOドライブを繋ぎ、MOディスクを挿入してデータの読み書きを行うものでした。
MO Disc(Magneto-Optical Disk)容量652MB出典:BASF MOD MASTER Rewritable Magneto Optical Disc 652MB 02.jpg is under CC BY-SA 4.0
「山海塾」の欧州ツアーをきっかけに氏家啓雄さんと出会う
佐藤:同じ頃、「山海塾(さんかいじゅく)」という舞踏団がいて、欧州ツアーをサポートしてくれないかという相談が三菱自動車工業にきていました。この時点で山海塾を知っていた人は私を含め周りに誰もいませんでしたが、たまたまカルチャーに造詣の深い方が三菱自動車工業の社内にいらっしゃったので快くサポートしてくださることになりました。
写真集 “SANKAI JUKU AMAGATSU DELAHAYE” 写真家: DELAHAYE(1994年刊行 筆者所蔵)
佐藤:「キャンター」という三菱ふそうのトラックをかっこよくラッピングして、ヨーロッパ中をツアーしたんです。そのツアーを皮切りに山海塾はヨーロッパで更にブレイクして、演劇界で権威のあるパリ市立劇場でトリをつとめるまでになりました。
しばらくして、その山海塾のヨーロッパツアーを取り仕切っていたマネージャーの方から面白いアーティストがいるのでまたどうにかサポートしてくれないか、という相談をうけました。それは、大気中の放射線をガイガーカウンターで計測し、ピアノにつないで音を出す「空から降るミュージック」という展示会だったのですが、その展示会に資金提供をしてもらえないかという相談でした。
そのアーティストが、1992年から1994年にかけて放送された子供向けバラエティ番組『ウゴウゴ・ルーガ』のCG制作を担当された氏家啓雄さんという方でした。支援したイベントの終了後に会社にお礼に来たことをきっかけに仲良くなり、原宿にあったオフィスに時々遊びに行ったりしました。当時、氏家さんは「Amiga(アミーガ)」というパソコンで『ウゴウゴ・ルーガ』のCG映像を制作していて、その様子を見せてもらったりしました。
出典:Commodore Amiga 500, 16-bit computer (1987) is under CC-BY-2.5 © Bill Bertram
佐藤:一方で、氏家さんはアップルコンピュータの大ファンでMacのヘビーユーザーでもあったのですぐに意気投合し、僕もMacやパソコンを使ったクリエイティブな世界に心が惹かれていきました。
杓谷:「Amiga」は米国のコモドールという今はなくなってしまった会社が販売していたパソコンですが、比較的低価格なパソコンだったにも関わらず、映像制作、CG制作に優れたソフトウェアが充実していて、テレビ番組や映像ソフトの製作現場で広く使われていたそうですね。
アップルコンピュータに強く惹かれて
佐藤:その氏家さんのオフィスにいた若いデザイナーの方が、フリーランスとして独立するということを聞きつけ、旭通信社の仕事をやってくれるようにお願いすることにしました。当時はまだDTPができる人やCG(「Computer Graphic」の略)を制作できる人が社内外に少なかったので、三菱自動車工業の対応に必ず必要になると考えたからです。
運良く旭通信社の仕事を引き受けていただけることになったので、Macの最上位機種の「Quadra(クアドラ)」と、キャノンの数百万円もするカラープリンター、PostScriptへの変換機械を購入しました。合計で1000万円ほどかかったと思います。その時の上司である、中村本部長は新しい事への感度が高い方だったので「これからはこういう時代ですよね?」と僕が言うと、「おお、そうだな」ということで予算が通ったわけです(笑)。
出典:「Apple Quadra 700」 is under CC BY-SA 4.0 © Simon Claessen
杓谷:第2話で登場した「テレックス」を使用していたのが1982年頃のことですから、たった10年で仕事の仕方が大きく変わってきましたね。その中心にコンピューターの存在があったわけですね。
佐藤:その1000万円する機材を会議室のひとつに詰め込んで、その氏家さんのオフィスから独立したデザイナーの方に使ってもらうことにしました。メインの仕事は旭通信社の仕事ですが、他の仕事をしても良いよという条件でした。僕は日々の業務では彼の仕事とは直接は関係がなかったのですが、用もないのにその会議室に入り込んでお茶を飲んだりしながら様子を見てコンピューターの世界、とりわけアップルコンピュータにのめりこんでいきました。
1990年代のアップルコンピュータジャパン(アップルコンピュータの日本法人)は「Mac’n Roll Night(マックンロールナイト)」というイベントを毎年開催していました。Mac専門誌、広告代理店、ソフトウェア会社など、アップルコンピュータのビジネスに関わる関係者が参加するイベントで、アップルコンピュータジャパンの社員たちも加わってバンドを組んで競い合うなどといった楽しいイベントでした。
そのイベントの責任者だったのが後にアップル日本法人の社長となる方で、当時はアップルコンピュータのマーケティングを統括していました。その方もドラマーとしてライブに参加していましたね。
僕は、2023年に第1回AIアートグランブリを受賞してNHKや民放数社に取材出演し、音楽生成AIの本もつい先日発売されてあっという間に時の人になってしまった松尾公也さんと大学時代からのバンド仲間なのですが、彼は当時ソフトバンクが発行していた雑誌『MacUser』の編集長で、このイベントに編集部でバンド出演をしていたので、この様子を知りえることができました。熱気に満ちた勢いのある業界だな、と感じたものです。
第5話に続きます。
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