杓谷技研というマーケティング支援会社の代表を務めております杓谷 匠(しゃくや たくみ)と申します。この記事では、アタラ株式会社会長の佐藤康夫さんのご協力のもと、2024年9月5日(木)に連載を開始した「インターネット広告創世記 ~Googleが与えたインパクトから発展史を読み解く〜」の第3話をお届けします。なお、本連載は、株式会社インプレスが運営するWeb担当者Forumでも同時に公開しています。
前回の記事はこちらです。
三菱自動車の仕事からイタリアプロジェクトへ
杓谷:第2話では、旭通信社への入社後、国際局の中村局長の部署に配属され、三菱自動車の仕事を中心に広告業界での仕事をスタートしたところまでお伺いしました。インターネット広告のお仕事をされるまで、ずっと三菱自動車のお仕事をされていたのでしょうか?
佐藤:国際局で三菱自動車担当として10年ぐらい働いて、30前半の頃だったと思うんですけど、若い頃ってみんなそうだと思うんだけど、ある程度仕事を覚えてしまうと、今やっていることがこのまま永遠に続くんじゃないかって思っちゃうんだよね。そこしか見えてないから。
佐藤:僕もそうで、この仕事がこのまま一生続くのかなって思っちゃって。というのも、自動車は毎年新しく発売されるわけなので、毎年同じことを繰り返していきます。自分のキャリアはこのままでいいんだろうかと思って「辞めようかな」なんて考えたりしてしまいましたね。そんなことを考えていた矢先に空前のイタリアブームが到来しました。
杓谷:ジョルジオ・アルマーニやヴェルサーチなど、イタリアのファッションが人気になって、ティラミスなどの食品にまで発展して「イタ飯屋」なんて言葉が生まれましたね。
佐藤:その通りです。このブーム以前は、今スーパーで当たり前のように売っているホールトマトの缶詰とかってあまり売ってなくて。普通のトマトかケチャップしかなかったと思うんですよね。文藝春秋の『CREA』という雑誌が創刊して、ロゴ・デザインをマッシモ・モロッツィというイタリアのデザイナーが手掛けたりしたんです。
- 右:ロゴ・デザインを手掛けたイタリアのデザイナー、マッシモ・モロッツィさん。(筆者所蔵)
- 左:文藝春秋の雑誌『CREA』創刊号の表紙(筆者所蔵)1989年12月刊行。
佐藤:ちょうどその頃、外大生時代のイタリア語科の同級生が、独立してオフィスを開設しました。僕もその同級生の会社の仕事を少し手伝ったりしていたんです。手伝うと言ってもほとんど何もやってなくて、オフィスに時々行ってただけなんだけど、その会社はイタリアのデザイナーを日本に連れてきてコーディネートする仕事をしていて、自分もそういった仕事に興味を持ち始めたところ、渋谷の不動産系の会社がそういう事業を立ち上げるのでやってみないか、という話をいただきました。僕はそっちに転職しようかなと思ったんです。
それで、僕の直属の上司に「こっちをやりたいので転職を考えています」と言いに行きました。直属の上司は前述の中村局長(この時点では本部長に昇格)の前職からの名コンビで、中村さんはビシビシ攻めていくような感じなんだけど、直属の上司の方は難題やトラブルをグッと受け止めて辛抱強く何とか形にしていくようなタイプの方で、部下やクライアントからの支持がとても篤い方でした。
その上司に辞めたいということを伝えたら、「もうちょっと考えたほうが良いんじゃないの?」と言われてしまいました。しかし、数日すると「お前が転職したいって言ってる会社のことを調べてやったよ」と言ってきて、結局その会社は銀行関連で資金繰りが危なくなっていて、ちょっとまずいんじゃないのっていうことがわかったわけです。で、「あんた、そういうのやりたいんだったらうちでやっても良いよ」と言ってくれました。「えっ?」と思いながらやらせてもらったのが、イタリア関連のプロジェクトでした。懐の深い上司にとても感激したものです。
1990年、汐留駅跡地で「Creativitalia」というイタリア展を企画
佐藤:汐留の電通や日本テレビなどのビルが出来る前に、国鉄の貨物ターミナルの跡地があったのですが、そこを展示会場にして「Creativitalia(クレアティビタリア)」というイタリア展を企画しました。オムロンがスポンサーとなってくれて実施をすることができました。
建築家のガエターノ・ペッシェが展示会の設計を行い、グッゲンハイム美術館でキュレーターをやっていたジェルマーノ・チェラントが図録を作成してくれました。日本からも、建築家の磯崎新や、デザイナーの三宅一生、プロダクトデザイナーの黒川雅之、インテリアデザイナーの倉俣史朗など、錚々たるメンバーに参加してもらうことができました。
- 左:再開発前の国鉄汐留駅跡地の様子。イベントが開かれている様子が確認できる。(1989年撮影。出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)
- 右:ジェルマーノ・チェラント氏が監修した「Creativitalia」の図録(筆者所蔵)
佐藤:その頃の僕が何を考えていたかというと、三菱自動車担当時代は特定の車種や分野の担当者となったらそれに関することだけに忙殺されて、本当にひとつの歯車という感じがしていました。中村局長が三菱重工の自動車部に入り込んで三菱自動車を旭通信社のナンバーワンクライアントに育てあげたようなダイナミックなことにロマンを感じていたので、このイタリア関連の仕事を育てて自分のラインを作ってみたいと考えていました。これがうまくいけば「イタリアといえば旭通信社の佐藤」になれるぞ、というようなイメージを持って取り組んでいましたね。
バブル崩壊の余波が少し遅れてやってきて
佐藤:汐留で行われた「Creativitalia(クレアティビタリア)」を見たイタリア貿易振興会の会長がとても感動して、ぜひ旭通信社と一緒にやりたいと言ってきてくれました。
それは「アビターレイタリア」(アビターレはイタリア語で、住む、生活するの意味)という名前の住居関連のプロジェクトで、日本のゼネコンをスポンサーにつけて、イタリアの建築家が晴海の会場に未来の家を建設するという企画で、そのコーディネートを行いました。
日本からは建築家の高松伸、丹下健三、鈴木エドワード、伊東豊雄なども参加していました。イタリア側でもマリオ・ベリーニ、エトーレ・ソットサスなどの巨匠が参加しました。イタリアの建材を普及させるのが目的でしたが、今にして思えば大分大掛かりな仕掛けを行ったものですね。
ところが、バブル崩壊の余波が少し遅れてやってきて、だんだんと勢いがなくなっていってしまい、イタリア関連のプロジェクト自体も縮小していく方向になってしまいました。もちろん自分の力不足もとても強く感じていました。
第4話に続きます。
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