杓谷技研というマーケティング支援会社の代表を務めております杓谷 匠(しゃくや たくみ)と申します。この記事では、アタラ株式会社会長の佐藤康夫さんのご協力のもと、2024年9月5日(木)に連載を開始した「インターネット広告創世記 ~Googleが与えたインパクトから発展史を読み解く〜」の第8話をお届けします。なお、本連載は、株式会社インプレスが運営するWeb担当者Forumでも同時に公開しています。
前回の記事はこちらです。
杓谷:外資系グローバル企業を顧客に持つ海外の大手広告代理店といえど、日本でテレビや雑誌に広告を出稿するには、日本の広告代理店を通す必要があったわけですね。
佐藤:ここからは、日広(現GMO NIKKO株式会社)の創業者の加藤さんにこの連載に加わっていただこうと思います。雑誌広告の視点から見た当時の一般的な広告業界の様子や、インターネット広告市場の誕生、Google AdWordsの日本市場参入時の出来事などに立ち会っているので、インターネット広告の代理店の視点が加わって理解が進むと思います。
加藤:はじめまして、加藤と申します。1992年に日広を創業し、雑誌広告の販売からスタート、1996年から2008年頃まで黎明期のインターネット広告の販売に携わりました。第7話では、佐藤さんの視点から雑誌への広告出稿の難しさについて言及されていましたが、当時の一般的な広告業界の様子を解説する意味を含めて、僕が経験した雑誌広告の世界についてご紹介したいと思います。
徳間グループ2,000人の新しい流通チャネルを作れ!
加藤:1986年、関西学院大学入学後に学生企業リョーマに参画しました。リョーマの創業者達が中心になって1989年に設立したダイヤル・キュー・ネットワークに参画すべく、翌90年に上京しました。同社はNTTの新サービス「ダイヤルQ²」(電話番号0990ではじまる情報料金課金回収代行サービス)を利用した日本で初めてのコンテンツプロバイダー事業者で、社長が設立時は東大2年生だった玉置真理さんであったこともありメディアからも注目されていたのですが、渋谷センター街のイラン人の偽造テレフォンカード問題や、不純異性交遊問題などの煽りを受けて、ダイヤルQ²自体がブームから一変して社会問題化してしまいました。NTTが事業者への支払サイクルを2ヶ月後ろ倒しにしてブームの沈静化を図ったことにより資金繰りが厳しくなり、1991年4月に事実上の経営破たんを迎えることになります。
ダイヤル・キュー・ネットワーク時代の加藤さんの名刺(加藤さん所蔵)。Q²回線経由のFAX用画像情報サービス開発を担当。その後、伝言サービス運営部署の管理職に就いた
加藤:提携先でもあった徳間書店がダイヤル・キュー・ネットワークのサービスと人材に可能性とシナジーを見出し、受け皿となる法人を作ってくれたので、1991年5月に僕は他の役員・社員15名と共に株式会社徳間インテリジェンスネットワークに転籍しました。
当時の徳間書店は書籍の出版だけでなく、実写の大映、アニメのスタジオジブリを擁し、グループとして原作から制作から配給宣伝まで取り組んでおり、徳間ジャパンというレコード会社まで持っている総合出版会社だったのですが、代表の徳間康快氏から「これからは放送と通信が融合する時代が来る。書籍、映画、アニメ、音楽が全部一つの管で流通する時代が来るんだ。君たちには徳間グループ2,000人が生み出すコンテンツの新しい流通チャネルを作ることを期待している。」と激励されました。
文化通信社が出版している徳間康快氏の評伝(出典:文化通信オンラインストア)
加藤:配属は営業企画部で、徳間グループのコンテンツをダイヤルQ²回線に載せるサービスの事業化が当座の役目でした。ダイヤルQ²の他にも東京FMとの「PCM音声放送」と呼ばれるインタラクティブラジオのサービス開発案件も降りてきました。通信衛星やISDNなど「高度情報社会」の新しいインフラを使ってどんなコンテンツを作るかを企画していました。
徳間書店はこの1991年の5年後にあたる1996年、博報堂や旭通信社などが出資して設立したインターネット広告を専門に取り扱う「メディアレップ」と呼ばれる広告代理店、デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム株式会社の創業株主にも名を連ねています。(「メディアレップ」については次回以降の記事で詳述。)インターネットが商用解禁される随分前から新しい流通チャネルの開発を模索していたんです。
1992年8月、日広(現GMO NIKKO)を創業
加藤:ダイヤルQ²を使った販促や広報の与件も担当し、映画『おろしや国酔夢譚』『紅の豚』等の宣伝PRが進行していく過程を目の当たりにして面白くはあったのですが、約1年4ヶ月在籍した後に退職をすることを決めました。
理由としては、ダイヤル・キュー・ネットワークから続いていた男女のマッチング伝言サービスがあったのですが、これを止めることになったんです。僕はその事業を救うために徳間インテリジェンスネットワークに移籍したようなところがあったので、そのサービスを止めるのであれば徳間グループにいてもあまり意味がないなと感じていました。
そんな時に、ツーショットダイヤル業界の大手2社から声をかけられました。ツーショットダイヤルとは、男性はダイヤルQ²か一般電話回線の電話番号に電話をかけ、女性はフリーダイヤルに電話をかけて、ランダムに結線して気に入らなければワンプッシュで別の異性につながるという会話のマッチングサービスでした。当時はまだ「出会い系」という言葉はなかったんです。
彼らは、基本的に表の商売があって、新宿で全然違うセールスの会社をやっていたり、渋谷で飲食店を経営しながら別に会社を作ってひっそりとツーショットダイヤルサービスを運営していました。つまり、世を忍んでやっていたんですね。
ビジネスモデルは、要するに女性用のフリーダイヤルの電話番号の宣伝と、男性がかける電話番号の宣伝をどれだけ多く効率的に打てるかどうかだけなんです。電話番号にかけてマッチングすれば1分100円で課金されるんで、宣伝が全て。ところが僕の知ってた大手2社とも、表立って堂々と広告の調達ができないわけです。
彼らが僕に連絡してきて、「加藤、お前徳間書店でそんなことやってる場合じゃない、俺の会社の宣伝をしてくれ!」と。「何するんですか?」と訊くと、成年誌、グラビア誌、劇画雑誌、情報誌、過激な性表現がOKのレディースコミック誌などの広告枠を仕入れてこい、ということでした。「いや僕、紙広告とかやったことないんで」と言ったんですが、「金はやるからとにかくやれ!」と言われて「分かりました。」って(苦笑)。
こういった経緯で僕は1992年8月、日広(現GMO NIKKO株式会社)を25歳で創業しました。
加藤さんの1996年(左)と1993年(右)の名刺(加藤さん所蔵)。創業時は社長の肩書では逆に舐められると思い、営業部員を名乗っていた。
飛ぶように売れた成年向けの雑誌の広告販売
加藤:結論から言うと、日広を創業してめちゃくちゃ楽しかったです。
一番は、ツーショットダイヤル業界の最大手2社から声をかけられたこともあって、予算が青天井だったんです。シンプルに成年誌やレディースコミック誌のツーショットダイヤルのコール促進の「反響が数えられる」広告枠を仕入れるのが仕事でした。ひたすら諸先輩の「まわし」広告代理店や、雑誌の版元(出版社)を回る、電話する、価格交渉する毎日でした。
佐藤:「まわし」とは広告業界の専門用語で、テレビや雑誌など、特定の広告枠を取り扱うことができる口座を持っている広告代理店が、口座を持てない広告代理店等に広告枠を仲介することです。第7話でDDB、BBDOなど外資系広告代理店が、僕のいた旭通信社に広告枠の買い付けを依頼していましたが、この場合は旭通信社が「まわし」広告代理店の役割を担っている形になります。
加藤:最初の1ヶ月で30ページぐらい売れたんです。広告の掲載料は1ページ10万円、15万円といった価格帯で、カラーでも40万円ほどでした。翌々年の94年末頃は月300ページは取り扱ってました。平均すると毎日10ページは広告を入稿していた計算で、日々大量の成年誌が広告掲載誌で届いてました。93年夏に借りた南青山の事務所は僕を入れて総勢3名。骨董通りの突き当りの雑居ビルの4階の1室で、広告枠を仕入れさえすれば飛ぶように売れていく日々でした。
大手出版社と直接取引できるのは”来世紀中”は無理!?
加藤:その中でも広告主に人気があって、かつページあたりの料金単価が高かったのは、コンビニで売ってるグラビア誌や競馬パチンコの情報誌でしたね。『スコラ』『月刊プレイボーイ』『デラべっぴん』『SPA!』などは発行部数も多くて人気でした。
ところがこうした人気雑誌の版元は集英社や講談社などの大手だったので、アポを取って伺っても直接お取引の口座契約をしてもらえません。「今度のお客さんは前金で定価以上の450万円払うから広告出稿させてください」と言っても「そこは電通が買うということが20年前から決まっている」みたいなことを言われてしまうことが何度もありました。「まわし」代理店を紹介するのでそこから広告枠を仕入れてくれ、と案内されるのも日常で。
「まわし」代理店は神保町小川町に集中していました。駆け出しの僕は舐められていたのか結構マージンを抜かれてしまって、業種的にもバカにされていました。どの雑誌も誌面の前の方を飾るのはほぼ大手企業という序列です。1993、1994年は創業2、3年目でしたけど、とにかく広告会社としてマトモにお付き合いしてもらえるために数多くの出版社の営業担当者や、広告枠を「まわし」てくれてる広告業界の諸先輩方に夜な夜なお金を使ってましたね。
今も忘れないのが、1995年に某大手出版社に取引口座を作ってくれと飛び込みで行った時の出来事です。「君いくつ?」と訊かれて「27です。」と答えると、「会社作ったのいつ?」とまた訊いてくるので「3年前です。」と答えました。すると、「加藤さん、悪いけど口座が作れるのは来世紀中は無理じゃないかな。」と言われてしまいました。内心「ふざけんな!」って思いましたよね。
雑誌もテレビも、料金表は存在しているのにその料金を払っても買えないスペースがあることがだんだんとわかってきたんです。しかも無尽蔵にある。当時の僕にとっての広告ビジネスとは「広告枠」の売買でした。そして大半の優良な雑誌の人気枠は大手企業によってきれいに寡占されている現実を突きつけられました。新参の立場では雑誌広告の世界では成長の限界がある、ということに鈍くずっしりと気づいてしまって27歳の僕は懊悩してました。
インターネットの衝撃と「インターキュー」との出会い
加藤:そんな閉塞感に苛まれた1995年の春先、お客様のツーショットダイヤル事業者の某オーナーが電話で「インターネットって知ってるか?」って訊いてきたんです。「知らないです。なんですのそれ?」と返すと、「アメリカでは、今インターネットっていうのがあって、俺たちみたいな男女のマッチング産業を電話じゃなくてインターネットでやってるんだ。」って言うんです。そのオーナーからデモンストレーションがあるから一緒に見に行こうと誘われて行くと、インターネットを電話回線でつなぐ時に流れるピーヒョロロ〜♬ という音が流れて「なんだこれは!」と衝撃を受けました。僕はすぐにMacに繋ぐモデムを購入して自分でもインターネットに接続してみました。
マッチング産業がこっちに移ると確信しましたね。僕が今までやっていた「電話回線に電話して……」みたいな世界は終わる。「もう、絶対こっちや!」と思いました。でも僕ができることって結局広告を売ることだけです。だから、インターネットを普及させる会社の広告を雑誌に打つ、ということだけを最初に決めました。
そんな折に熊谷正寿さん(現GMOインターネットグループ代表取締役)と、徳間まで同僚だったダイヤル・キュー・ネットワークの元社長玉置真理さんが組み、ダイヤルQ²を使ってインターネットに接続する「インターキュー」というインターネット・サービス・プロバイダ(Internet Service Provider、以下ISP)サービスを始めたのですが、その誕生には僕も深く関わりました。誰でも1分でインターネットにつながる社会を実現するという「インターキュー」の広告を雑誌に載せる仕事を日広が担うことになったんです。
インターネットとパソコン雑誌の世界に風通しの良さを感じた
加藤:そういった経緯で最初に広告枠を仕入れに行ったのが、株式会社インプレス(以下インプレス)でした。
杓谷:インプレスはこの連載が掲載されている『Web担当者Forum』の運営会社でもありますね。
加藤:インプレスは、アスキー(ASCII)の創業メンバーだった郡司明郎さん、塚本慶一郎さんが、同じく創業者の西和彦さんと袂を分かって1992年4月に市ヶ谷に設立した会社です。僕がインターネットのことを猛勉強していた1995年の夏頃によく読んでいたのがインプレスが出版していた『iNTERNET magazine』でした。
株式会社インプレス発行の1996年1月号の『iNTERNET magazine』(筆者所蔵)
加藤:インターキューの広告を出稿しようとインプレスを訪ね、「僕、パソコン雑誌の広告やりたいんやけど。」と相談してみると「加藤さん、成年誌専門じゃないですか。」「いや、実はISPの広告をやろうと考えていて。」と言うと「ええ!?そうなんですか、いいですよ!」ってすぐに口座を開いてもらえたんです。前述のように伝統的な大手出版社や雑誌広告業界の中では日広は虐げられていたので、古い出版社より、これから伸びる新しい出版社のほうがしきたりとかないから風通しがええな、と明るい兆しを感じましたね。
この出来事をきっかけに、パソコン雑誌にISPの広告を売っていこうと考え方が変わっていったんです。「もう成年誌には力をいれない。これからはパソコン雑誌、インターネット入門誌をやっていくんだ!」と社員に説明していました。
1995年11月末、Windows 95の発売に合わせて広告を掲載
1995年11月末、Windows 95の発売に合わせて、ダイヤルQ²を利用したインターネット接続サービス「インターキュー」の広告を『FLASH』と『スコラ』という雑誌に掲載しました。少し時代は後になりますが、これは1996年11月号の『iNTERNET magazine』に掲載された「インターキュー」の広告です。
1996年11月号の『iNTERNET magazine』に掲載されたインターキューの広告(筆者所蔵)
杓谷:広告業界での歴史が長い旭通信社に所属していた佐藤さんと、創業して間もない広告代理店日広の加藤さんが、雑誌広告を通じて奇しくも同じようなご経験をされていたことになりますね。そしていよいよ、インターネット広告市場が本格的に誕生した1996年を迎えることになります。