杓谷技研というマーケティング支援会社の代表を務めております杓谷 匠(しゃくや たくみ)と申します。この記事では、アタラ株式会社会長の佐藤康夫さんのご協力のもと、2024年9月5日(木)に連載を開始した「インターネット広告創世記 ~Googleが与えたインパクトから発展史を読み解く〜」の第32話をお届けします。なお、本連載は、株式会社インプレスが運営するWeb担当者Forumでも同時に公開しています。
前回の記事はこちらです。
杓谷:前回のお話では、2006年10月に行われたGoogle主催の招待制カンファレンス「Zeitgeist ’06」(以下「ザイトガイスト」)のお話をお聞きしました。Facebookのマーク・ザッカーバーグが登壇し、イベントの最終日にはYouTubeの買収の発表があるなど、現在のインターネット、インターネット広告の源流となったような奇跡的なイベントだったんですね。
佐藤:「ザイトガイスト」は昨年の2024年まで毎年行われているカンファレンスですが、現在のインターネットおよびインターネット広告の源流となる出来事が登場したという意味で、2006年の「ザイトガイスト」は他の年とは一線を画す象徴的なイベントでした。
加藤:新時代の幕開けを強く感じる一方で、翌年の2007年から「グレーゾーン金利」の撤廃と「ライブドア事件」の影響で日広の経営状況はかなり厳しくなってしまいました。最終的に僕は2008年5月に日広の経営権をGMOに譲渡することになりました。
加藤:2007年に入ってから毎月の資金繰りが厳しくなり、特に4月以降は1年間毎月500万円から2000万円ほど足りなくて、月末までに何とかお金を用意しないと実際に破綻するという状況にまで陥ってしまいました。社員への夏のボーナスは1ヶ月しか払えないし、初めて希望退職を募って……30人も辞めてもなお、冬のボーナスがついにゼロになると決まった10月の段階で、僕がこのまま経営を継続をすることは困難だという結論に至りました。会社をお譲りすることを前提に賞与と年越しの資金をお借りしたいと頭を下げたのが、2007年11月です。
「グレーゾーン金利」の撤廃につながる最高裁判決
加藤:このような状況に追い込まれた要因の一つが、第30話でも少しお話した2006年1月13日に最高裁判所で下された「グレーゾーン金利」の撤廃につながる判決です。
参考:日本弁護士連合会ウェブサイト『「みなし弁済」の適用に関する最高裁判決についての会長声明』
「グレーゾーン金利」とは、「利息制限法」が設定する上限金利15〜20%と、「出資法」が設定する上限29.2%の間の金利のことで、消費者金融業者の多くが「出資法」を根拠に20%以上の金利を設定していました。

「利息制限法」と「出資法」の上限金利の差(筆者作成)
この判決をきっかけに「グレーゾーン金利」は撤廃され、さらには20%を超えた分の金利で得た利益を、10年前にさかのぼって返還する必要に迫られたのです。当時最大手だった武富士が抱えた過払い金請求は、総額1兆円とも言われていました。
一度正しく所得の申告と納税を終えた会社法人の決算を否定するのであれば、取りすぎた税収を各事業者に対して返還すべきであったと僕は思いますが、国からの返還はありませんでした。結果的に、武富士は破綻し、三菱UFJ銀行がアコムを、三井住友銀行がプロミスを買収することになりましたが、実質的に譲り受けたと言っても良いと思います。また、外資でGE(ゼネラルエレクトリック)系のレイクとCiti(シティバンク)系のアイクは日本市場から即時に撤退しました。彼らからすると、10年前にさかのぼっての過払い金の返還はとても不可解なものに見えたはずです。
当時の日広の最大顧客の一社はCiti Financial Groupで、年間で億単位の広告出稿額だったのですが、過払い金の返還が始まってから広告出稿がすべてストップしてしまいました。
創業以来の大口顧客だったGMOインターネットを直撃
加藤:この最高裁判決の影響は、日広が長年深く関わっていたGMOインターネット(旧インターキュー。第8話、第13話参照)にも飛び火しました。同社は、前年の2005年9月にオリエント信販株式会社という消費者ローンを提供する会社を買収していたのですが、買収したばかりの会社の過払い金を過去にさかのぼって返還していく必要に迫られたのです。実際、同社はこの時潰れかけました。『経営者通信』のウェブサイトで、GMOインターネットの熊谷さん自ら当時の様子を語っています。
―2005年当時のオリエント信販は売上192億3,900万円、最終利益は13億9,600万円と業績は決して悪くありませんでした。どうして400億円もの大損失を出したのですか。
熊谷:ふたつの要因がありました。ひとつは、2006年1月の最高裁判決。「グレーゾーン金利は違法。過去にさかのぼって返還しなさい」という判決が下されました。その後に過払い金の請求が急激に増え始めたんです。1ヶ月の利益4億円に対して、過払い金の請求は2億円程度。つまり、利益が半減してしまったんです。当社がオリエント信販を譲り受けてから1年も経っていない。それなのに、過去のオーナーが得た利益の分を当社が支払わなければいけない。これは受益者負担の原則からすると疑問でした。
しかし、グレーゾーン金利については、すでにメディアでも報道されており、当社にとっては織り込み済みのリスクでした。ただ、もうひとつが想定外でした。それは2006年10月の会計基準の改定です。ローン・クレジット会社は、グレーゾーン金利の支払い請求に備えて、会計上、引当金を積んでおかねばなりません。ただ通常の引当金って1年分なんですね。ところが会計基準が改定され、その引当金が❝10年分❞に改定になったんです。この改定を知り、僕は背筋が凍りました。これはヤバイと。当社の場合、約200億円の引当金を積むことになりました。その結果、自己資本比率は急激に低下。債務超過の危険性が高まったんです。債務超過になれば、いつ金融機関から融資の返済を迫られてもおかしくありません。つまり、黒字倒産の危険性が生まれたんです。もう目の前が真っ暗になりましたね。
引用:経営者通信:「経営者は夢を掲げ仲間と一点突破せよ」
同社は創業以来日広の大口顧客で、広告枠の大仕入先でもありましたが、グループ全体の広告の出稿金額を大きく抑える必要がでてきたわけです。当然、日広の売上も大きく減ってしまいました。
グレーゾーン金利の撤廃が広告業界にも大きな影響を与える
加藤:第29話でも少しお話しましたが、1996年から2005年までの10年間、日本で広告宣伝費を使う企業の上位は、武富士、プロミス、アコム、アイフルの4社で固定でした。当時と今では桁が一つ違うというぐらい広告宣伝費の規模が大きかったのですが、この4社こそが、10年以上にわたり日本の広告産業の屋台骨だったんです。テレビCMのスポット広告はこの4社で荒く見積もっても15%はいってたと思います。下の動画は2005年当時の消費者金融会社のテレビCMです。きっと見覚えのある方も多いのではないでしょうか。

遅延損害金の利率が出資法の上限の29.20%と表記されていることが確認できる
この4社はインターネット専業広告代理店の超重要顧客でもありました。消費者金融の広告出稿量は、インターネット業界のエコシステムの燃料そのものだったからです。正直、セプテーニもオプトもアイレップも、彼らがいなければ上場できなかったと思います。つまり、この判決は広告業界全体に大きな影響を与えたんです。
杓谷:検索連動型広告はオークションでクリック単価が決まりますが、「カードローン」などの検索語句への入札価格はこの当時で1クリック3000〜5000円ほどにまで高騰していました。これだけクリック単価が高騰しても投資対効果が見合うというわけです。広告代理店にとっては広告費の20%(第23話参照)が標準的な運用手数料になるので、相当大きな売上になったと思います。これらの大口顧客の出稿金額が大きく減ったわけですから、この時期のインターネット専業広告代理店各社へのインパクトは相当大きかったと思います。
「ライブドア事件」がさらに追い打ちをかける
加藤:同じく2006年の1月16日に東京地検特捜部がライブドアを強制捜査したことで、同年4月にグループ7社が上場廃止になりました。これがいわゆる「ライブドア事件」です。

謝罪会見を行うライブドアの新経営陣
出典:Internet Watch:「ライブドア新経営陣が記者会見、株主らに謝罪」(2006年1月24日付け)
第30話でもお話しましたが、ライブドアとはオン・ザ・エッヂ時代からお取引があったのですが、2004年にライブドアがバリュークリックジャパン(第12話参照)を買収したことをきっかけにお取引が増え、ポータルサイト「Livedoor」など、ライブドアが運営するサービスの広告の取り扱い高が大きくなっていたのですが、この「ライブドア事件」の影響で顧客であったライブドアおよびその関連企業からの広告出稿が激減してしまいました。
この「ライブドア事件」が堰を切った格好となり、2000年のネットバブル崩壊以降も次々と世に出ていた300社以上の「ネット系」上場銘柄が底が抜けたように軒並み急下落し、後に「ライブドアショック」と呼ばれるようになりました。これによって、「ミセス・ワタナベ」とも海外で謳われた、市井の人々を大いに巻き込んだネット系企業への株式投資ブームの火は消えてしまいました。杓谷:「ミセス・ワタナベ」という言葉は、主に日本の個人投資家を指します。元々は、昼休みなどに株やFX(外国為替証拠金取引)の取引を活発に行い、それが世界の金融市場に大きな影響を与えるようになったことから、欧米の報道機関が名付けたと言われています。この言葉の由来は、株式市場における行動パターンが「主婦」の生活リズムに近いことから名付けられたようですが、実際には性別を問わず、日本の多くの個人投資家が市場に大きな影響を与えていたことを示しています。
強く感じた若いベンチャーに対する不条理
加藤:こうした一連の流れを見て僕は、日本という国は近い将来若者にとんでもなく不幸なことが起こるんじゃないかと危惧していました。出る杭を叩くどころではなく、根こそぎ抜いてしまうような若いベンチャーに対する不条理を強く感じました。
三菱UFJ銀行がアコムを、三井住友銀行がプロミスを買収して救済したのも、僕には儲かる会社を国が召し上げて実質的に無料で大手の銀行に譲り渡しているように見えました。また、この少し後の2010年1月に日本航空が破綻した際には、政府が設立した「企業再生支援機構」(現在の地域経済活性化支援機構)が日本航空の筆頭株主となり、3,500億円の公的資金を資本注入して救済しました。
参考:日本航空ウェブサイト「株式会社企業再生支援機構による支援決定及び会社更生手続の開始決定等に関するお知らせ」
親方日の丸的な財閥系、経団連系の企業だけが残って、若いベンチャー企業の芽を摘み、再起できないぐらい叩き潰す、そういった社会になるんじゃないかと思いました。
楽天の三木谷さんも2007年は厳しかったと思います。楽天がTBSを買収しようとした際に、あともう少し買い増せば三木谷さんの個人会社と合わせて33.4%買えて議決拒否権が発生し、経営への強い影響力を持つことができたのに、なんらかの強い制止によって、結局TBSに戻して売却損を約700億とも言われる損失を出したりするなど、経済的な合理性からはまったく意味がわからないことが立て続けに起こったわけです。なぜ買収できなかったのかもよくわからないし、その説明も一切ありませんでした。
参考:週刊ダイヤモンドオンライン:「楽天の“評価損700億円で決着”でもTBSが勝者といえない事情」(2008年12月16日付け)
米国出張で感じていたリーマン・ショックの予兆
加藤:実は、僕は2004年頃から世の中が良くない方向に行くんじゃないかという予兆を感じていました。僕が日広を創業したのは1992年だったのですが、日本におけるバブル崩壊は1989〜1990年に起きていて、ちょうど僕が社会に出る前後の出来事でした。このバブル崩壊で一番影響を受けたのが当時の僕の先輩たちで、僕は今年58歳なんですが、今の61歳前後の人達が大きな影響を受けました。
当時「億ション」という言葉があって、入社2年目、3年目の人が年収500万円しかないのに1億円のマンションを買えたんです。それがその後の大暴落で「億ション」を買った人たちはみんな死屍累々になっちゃったんです。この時に一番問題になったのが、返せる能力のない人に金を貸すということでした。
仕事の関係で僕はよく米国に出張をしていたわけですが(第29話参照)、2004年頃からサブプライムローンと呼ばれる、要するにお金を返す能力のない人に住宅ローンのお金を貸すというサービスが猛烈に加速しているのを目の当たりにして、日本のバブル崩壊前の状況と重なって見えました。結果的に、このサブプライムローンが引き金になり、ファニーメイ、フレディマックの破綻から、リーマン・ブラザーズの破綻につながっていきました。

ニューヨークのミッドタウン6番街にあったリーマン・ブラザーズのオフィス
見えにくいが一番下の段にLehman Brothersの文字が見える
(2006年筆者撮影)
今の米国はこの時の状況に近くなっているので、またリーマン・ショックみたいなことが起こるんじゃないかと僕はちょっと心配になっています。
新生「GMO NIKKO」の名前に秘められた絆
加藤:日広の譲渡先の候補としてはGMOと大手総合広告代理店の2社がありました。GMOは間一髪のところで債務超過の危機を回避することができたんです。先ほどの『経営者通信』のウェブサイトで熊谷さんが当時の様子を語っています。
―その後、どうやって危機を切り抜けたのですか。
熊谷:債務超過を防ぐため、様々な手段で資本増強を続けました。2007年12月には、ヤフーさんに約14億円の増資を引き受けてもらいました。さらに、僕の所有していた不動産を現物出資しました。現物出資による増資は、上場企業では異例のこと。それでも顧問弁護士や会計士などのサポートを受け、ギリギリのタイミングで45億円の現物出資に成功。債務超過を回避したんです。ここですべての損失処理を完了し、ついに危機を乗り切ることができました。引用:経営者通信:「経営者は夢を掲げ仲間と一点突破せよ」
大手総合広告代理店からの買収のお話はとてもありがたいお申し出ではあったのですが、もし僕の見立て通りに世の中全体の景気が悪くなるのだとすると、広告ビジネスはその煽りを強く受けるだろうと考えていました。その一方で、GMOが主軸とするドメインやレンタルサーバー事業は一度契約すると簡単には解約しにくいサービスです。大不況が来ても事業は底堅く、社員も安心して働けるだろうと考えました。そして、僕がこだわったのは、「日広」という名前を残すことで、それも決め手となりました。
こうした背景から、僕は2008年の5月にGMOに66.7%まで新株発行して、日広が支配子会社になる道を執りました。危機を乗り切ったとはいえ、GMOの経営的な厳しさは2010年頃まで続いたので、本当にありがたかったですね。その後、2011年3月に正式に社名を「GMO NIKKO」に改称して現在に至りますが、あれから17年経っても「GMO NIKKO」として名前が残っていて律儀に約束を守ってくださっています。もし大手総合広告代理店に売却していたら、その瞬間に日広の名前はなくなっていたと思います。
僕は現在GMOインターネットグループ株式会社のCBO(Chief Branding Officer)を務められている橋口誠さんに会社を託し、シンガポールに移住することを決めました。こうして僕は16年におよぶ日広での生活に終止符を打つことになりました。
参考:GMOインターネット株式会社ウェブサイト「株式会社NIKKO への資本参加(連結子会社化)に関するお知らせ」
参考:ベンチャー型家業承継でウミガメ実践記「NIKKOを手離して、まる四年が経ちました。あの頃の備忘録。」
結果論ですが、僕が日広を辞めたのは2008年5月。同年の9月14日にリーマン・ショックが起こりました。なので、あのまま僕が経営を続けていたとしても日広は破綻していたと思います。
第33話に続きます。