杓谷技研というマーケティング支援会社の代表を務めております杓谷 匠(しゃくや たくみ)と申します。この記事では、アタラ株式会社会長の佐藤康夫さんのご協力のもと、2024年9月5日(木)に連載を開始した「インターネット広告創世記 ~Googleが与えたインパクトから発展史を読み解く〜」の第19話をお届けします。なお、本連載は、株式会社インプレスが運営するWeb担当者Forumでも同時に公開しています。
前回の記事はこちらです。
杓谷:技術としては高度な「ロボット型」検索エンジンが、「ディレクトリ型」の検索エンジンに負けてしまったり、高価なサーバーが必要となるなど、Googleが登場する前の「ロボット型」検索エンジンは技術的にもビジネス的にも課題が多かったんですね。
佐藤:この後登場するOvertureやGoogleの検索連動型広告がそれまでの広告とどのように違っていたかを浮き彫りにするために、Googleが登場する前の検索エンジンにまつわるインターネット広告について紹介しておきたいと思います。
検索結果に表示された「サーチワード広告」
佐藤:第10話で角くんに紹介してもらいましたが、Googleが登場する前の1990年代の検索エンジンが関わる広告は「サーチワード広告」と呼ばれる検索結果にバナー広告を表示させる広告が人気商品でした。広告主は「転職」「自動車保険」など、検索語句を指定してバナー広告をインプレッション保証で出稿することができます。

1997年1月のYahoo! JAPANで「ハワイ」と検索した時の検索結果に表示された「サーチワード広告」
佐藤:最初にこのサーチワード広告で大きく売上を伸ばしていったのは、「美容整形」など他人に相談しにくいようなサービスの広告で、この結果には個人的に衝撃度が大きいものがありました。想定していなかった検索語句の広告が次々と売れていく様子を見ていると、バナー広告を営業マンが手売りで売っていくっていうのもどうなのかな、と次第に思うようになっていきました。
加藤:検索数が多い検索語句のことを「ビッグワード」、少ない検索語句のことを「スモールワード」と呼ぶのですが、「スモールワード」に関しては幾つかの検索語句をパッケージにして販売していました。この「スモールワード」のサーチワード広告に注力し、躍進したのがアイレップとアウンコンサルティングです。
加藤:僕ら日広はサーチワード広告が登場した1996年からスモールワードの単語を軸に幅広くサーチワード広告を売っていたのですが、第15話でお話したように、2000年代に入って携帯電話のインターネット広告市場が伸びていくと、そちらに軸足を移していました。ちょうどその時期に、この2社がサーチワード広告に注力していくことになりました。
当初のサーチワード広告は、ひとつの検索語句に広告枠はひとつしかなく、なおかつ継続型の広告枠だったので競争も何も起きなかったんです。一度契約した広告主が解約しない限り、待ってる人に広告枠が回ってくることはありません。2001年頃には主だったビッグワードのサーチワード広告はみんな売れてしまっていて、誰かが解約しない限り広告枠が空くことがないんです。「引っ越し」などの超ビッグワードの価格は月300万円とかになってるんですが、ずっとアート引越センターが固定でした。2000年頃には「岩手県で『レンタカー』が検索された時の検索結果」といったように、検索語句とIPアドレスで判別した地域をかけ合わせて広告を買えるようになっていきました。
アイレップもアウンコンサルティングも、スモールワードの組み合わせサーチワードは一度購入されると解約されにくく、ARPU(Average Revenue Per User)が長いということで注力されていたことをよく覚えています。
Google最初の広告商品「プレミアム・スポンサーシップ広告」
佐藤:創業当初のGoogleは「プレミアム・スポンサーシップ広告」(以下「プレミアム広告」)という広告が検索結果の下に表示されていて、それが収益の柱になっていました。僕が入社した2001年10月の時点では、現在のGoogle広告に通じる「Google AdWords」はサービス開始前でした。

2002年3月にGoogleの「広告掲載について」に掲載された「プレミアム・スポンサーシップ広告」のサンプル
佐藤:「プレミアム広告」は、検索結果上部に表示されるテキスト広告であるという点では今のGoogle広告の検索広告と大きな違いはないのですが、オークション形式ではなくインプレッション保証型の広告でした。検索語句と期間を指定して購入でき、どの検索語句でも価格は一律でした。
Infoseekでは、検索結果に表示させるバナー広告をCPM(Cost Per Millの略。1000回表示あたりの価格)12円で販売していたのですが、テキストなのでもっといけると思って15円で開始したのですが、やっぱり効果は良かったんです。「自動車保険」「為替ローン」などの金融関連の検索語句は、広告主のサービス自体の利益率が高いため、奪い合いでした。

「プレミアム・スポンサーシップ広告」の料金表
佐藤:日本ではまだ公式にはサービスを開始していませんでしたが、すでにリクルートがGoogleの米国本社経由で購入していて、いくつかの検索語句で広告がすでに配信されている状態でした。リクルートは日本のインターネット広告におけるトップ広告主のうちの一社ですが、その行動力には目をみはるものがあります。
入社してまず最初に驚いたのは、広告の配信を管理する在庫管理担当者が日本法人にいなかったことでした。広告を受注すると、本社に広告の配信の設定を依頼するというワークフローになっていました。このままでは日本で本格的にサービスを開始していくうえでまずいということで、慌ててInfoseek Japanで広告の出稿オペレーションを担当していた方にGoogleに来てもらうことにしました。プレミアム広告は、今のGoogle広告のようなセルフサーブ型の広告ではなかったので、営業、在庫確認から見積もり、受注管理、請求書の送付などはすべて営業担当が手作業で行っていました。
次に驚いたのは、日本の広告主に対して請求書を出すわけですが、海外送金でしかもドル払いの請求書になっていました。為替のリスクもありますし、これでは出稿を渋る広告主も出てくるため、慌てて経理担当を雇って日本円で支払いができる環境を整えました。
加えて、とある大手総合代理店の支払いサイトが90日で、つまり広告を発注通りに配信し終わってから入金されるまでに90日間かかったのですが、そのことを伝えると本社の経理部門にものすごい剣幕で怒られました。とはいえ、相手は大手総合代理店なのでこの支払いサイトを認めざるを得ません。グローバルのセールスを統括していたオーミッド・コーデスタニに頼み込んでなんとか認めてもらうことができました。
メディアレップを通さないという決断の大きな意味
佐藤:Googleの広告ビジネスを統括する立場として僕が最初に決めたことは、プレミアム広告はメディアレップを通さないという決断でした。
第二部メディアレップ編(第9話〜第17話)を通じてメディアレップの役割について話をしてきましたが、これまでのインターネット広告はメディアレップを通して広告を販売することが一般的でした。そのため、この決断はある意味でこれまでのインターネット広告の業界構造からの独立を意味します。その分、広告主への営業も自前でやらなくてはいけないわけで、売上に責任を持つ立場としてはとても大きな決断でした。

1990年代の一般的なインターネット広告の商流
出典:インターネットマガジン1996年11月号―INTERNET magazine No.22をもとに筆者作成

2001年に佐藤さんがGoogleに入社して決めた「プレミアム広告」の商流
出典:インターネットマガジン1996年11月号―INTERNET magazine No.22をもとに筆者作成
杓谷:CCIやDACなどのメディアレップを通さない、ということはその親会社である大手総合代理店とも一定の距離を置くということを意味しますので、ある意味で広告業界の業界構造、商習慣からの独立、と受け取ることもできます。場合によっては広告業界から敬遠されてプレミアム広告がまったく売れない、という結果になりかねないほどの大きな決断だったと思いますが、どうしてそのような決断が出来たのでしょうか?
佐藤:この頃になると、第10話で角くんがメディアレップの仕事の忙しさについて語っていただきましたが、インターネット広告の種類や数が多様化していき、メディアレップが窓口となって広告枠を仲介するというビジネスモデルが限界を迎えているように見て取れました。
また、メディアレップという存在は日本独自のものだったので、Googleの本社の人達には理解してもらえないだろうと感じたからです。創業者のラリー・ペイジやサーゲイ・ブリンを筆頭に、Googleのエンジニア達は広告業界の商習慣でさえも理解してもらえるかどうか怪しいところがありました。
おそらく、この決断をしたのは当時の主立ったポータルサイト、検索サイトとしては初めてだったのではないでしょうか。メディアレップ側の反応としては、バナー広告ではなくテキスト広告だったということと、当時そこまでGoogleの存在が大きなものではなかったので、黙認されたような形でした。彼らとしても、Googleのプレミアム広告は検索連動型広告で手間がかかるし自分たちが扱う商品ではない、と思ったのかもしれません。
杓谷:その後、2007〜2008年頃にFacebookやTwitterが日本に上陸した時も、最初はメディアレップを通していましたし、同じGoogleでも、YouTubeが日本で広告営業を始めた時はメディアレップを通していたことを考えると、この決断は極めて異質ですね。
その後、今のGoogle広告に通じる「Google AdWords」が登場し、日本でも広く普及していくわけですが、その後のGoogleが大手総合広告代理店の枠組みから比較的自由に行動できたのは、この時の決断が下地になっていると言えるかもしれません。個人的にはこの決断は日本のインターネット広告の歴史におけるひとつの分水嶺だった可能性があると考えています。本連載では、このGoogleのプレミアム広告の登場をもって、時代区分をメディアレップ期から検索連動型広告期へと移行しています。
もちろん、日本史において武家政権を樹立した鎌倉幕府の時代にも、藤原家を中心とする貴族政権が続いていたように、メディアレップが引き続きインターネット広告市場の中で大きな存在であったことは言うまでもありません。
広告の表示回数の予測と保証の難しさ
佐藤:プレミアム広告を販売していく中で最も難しかったのは、広告の表示回数の予測と保証でした。米国におけるプレミアム広告は、インプレッション保証型(表示回数保証)の広告ではあったものの、掲載期間は保証していなかったのですが、日本では表示回数と掲載期間の2つを保証するのが一般的な商習慣だったことが事態を複雑にしていました。
例えば、「転職」というキーワードが1週間に70万回検索されるとします。この場合例えば50万はA社に、20万はB社に売るという仕切りになるわけですが、検索数は状況によって変化し、万が一保証した50万回、20万回という回数を下回った場合には3倍返しのペナルティを受けてしまうというリスクがあるため、実際の検索数の8割程度の数を保証して販売します。
また、表示回数に加えて掲載期間も保証していたので、1週間で保証した表示回数が70万回で、その1週間の実際の検索数が100万回といったように大きく上振れた場合、30万回分の広告が表示されない、というケースが出てきてしまいます。
すると、実際の検索数よりは低めに表示回数を見積もっているため、時間帯によっては広告がまったくでない場合が出てきます。広告が表示されないのは広告主から見ると機会損失なので、「表示されない部分の広告枠を追加発注したい」「他社が買うよりも高い金額を出すからどうしても広告を出稿したい」といったご要望をいただいたりなど、広告の配信管理がとても複雑で大変でした。
また、プレミアム広告は見積もり時点でのキーワード在庫数と、オーダー時のキーワード在庫数に結構差があって本当に参りました。オーダー時のキーワード在庫数が不足することもあり、見積もり時点では余計に保守的な提案にならざるを得ませんでした。なので、上記のプレミアム広告についての説明ページの画像にあるように、基本の建前としては期間保証はしないという仕切りにしたように思います。
杓谷:こうした広告出稿にまつわるオペレーションの煩雑さを経験していたことが、「Google AdWords」(現Google広告)の開発につながっていったのかもしれませんね。
広告業界の常識破りだった広告枠1枠から2枠への変更
佐藤:当時、プレミアム広告の広告枠は、ひとつの検索語句に対してひとつの広告枠が基本だったのですが、米国では2つの広告枠を表示するようになっていました。日本が1枠だったのは、日本の広告業界の商習慣として、同ページには1業種1社という鉄則があったので、その慣習に則る形で1社1枠にしていました。
当初は僕の裁量で、日本は広告枠は1つということで通していたのですが、広告枠を1枠から2枠にすると単純に売上も増えるので、本社から「日本も広告枠を2枠にしてくれ」と何度もプッシュがあり、最終的に日本も広告枠を2枠にすることになったのですが、これまでの広告業界の商習慣から考えるとかなり常識破りなことでした。
これをやり始めると広告業界から袋叩きに遭いかねないほど大きな問題だったので、大手総合広告代理店や広告主と何度もヒヤリングを重ねました。インターネット専業広告代理店は、単純に売上が上がるのでぜひやってくれ、という反応でした。
最終的に、プレミアム広告のような検索結果に表示させるテキスト広告は、所詮は電話帳広告(≒リスティング広告)と同じだ――電話帳広告には同業他社が出ますよね――だから同じ業種の広告が検索結果に2つ表示されるのは不自然ではないはずだ、という確信を得て広告枠を2つにすることを決断しました。
すると、大手電機メーカーの広告主からすぐにクレームが入り、1000万円ほどの年間契約をキャンセルされてしまいました。「うちは天下の◯◯ですよ!」とものすごい剣幕で、随分と怒っていましたね。今でも覚えているくらいですから(苦笑)。夜に、Google本社に連絡して、グローバルの営業を統括していたオーミッド・コーデスタニに「広告枠を2枠にしたので挽回します」と言って謝った記憶があります。このことからも、当時の広告業界の商習慣の中で広告枠を2つにすることがいかに大きな決断だったかわかっていただけるかと思います。
色々な問題もありましたが、広告枠が1枠から2枠に増加し、Googleの検索数自体は伸びる一方だったので、売上は右肩上がりで毎月営業目標を大幅に上回りました。一方で、広告枠が倍になったということは、営業、見積書、請求書の送付等の管理業務も2倍になり、日々のオペレーションが疲弊していく結果にもつながっていきました。
第20話に続きます