杓谷技研というマーケティング支援会社の代表を務めております杓谷 匠(しゃくや たくみ)と申します。この記事では、アタラ株式会社会長の佐藤康夫さんのご協力のもと、2024年9月5日(木)に連載を開始した「インターネット広告創世記 ~Googleが与えたインパクトから発展史を読み解く〜」の第17話をお届けします。なお、本連載は、株式会社インプレスが運営するWeb担当者Forumでも同時に公開しています。
前回の記事はこちらです。
杓谷:インターネット・バブルの最盛期にサイバーエージェント、楽天、オン・ザ・エッヂ、そして加藤さんが深く関わったまぐクリックが上場していく中、佐藤さんのInfoseek Japanは楽天に買収されましたね。
佐藤:楽天によるInfoseek Japan買収の話があったのが2000年の後半の頃だったと思うのですが、この頃にGoogleの日本語版サービスが始まりました。Googleを初めて見た時の僕の衝撃を理解してもらうために、当時のインターネット広告業界の様子がどうなっていたかを解説したいと思います。
パソコンの画面を埋め尽くしていったバナー広告
佐藤:90年代、ポータル戦争を勝ち抜くための必要な要素は6つのCと言われていて、「Contents」「Commerce」「Context」「Communication」「Community」「Conectivity」 を強化していくことが大事でした。
このうちの「Context」は日本語の「文脈」という意味で、検索エンジンのことを指します。「Communication」はウェブメールなどのメールサービスやチャット機能で、MSNは「Hotmail」というウェブメールサービスや「MSN メッセンジャー」を持っていました。「Connectivity」はインターネット接続のことを指していて、Yahoo! JAPANが数あるポータルサイトの中で圧倒的な存在になったのは2000年代前半にモデムを無料で配って「Connectivity」を圧倒的に強化したからです。
ポータルサイトの収益のほとんどは広告でしたし、広告以外の収益でも基本的にはアクセス数と売上が比例していくものがほとんどだったので、ユーザーをウェブサイトの外に出さないようにいかに囲い込んで自社サイト内を回遊してもらうか、ということに注力していました。そのため、各ページに様々な自社サービスへのバナーやリンクがこれでもかと貼られていくことになっていきました。
また、広告の課金モデルも第10話、第11話で紹介した通り、「インプレッション保証型」と呼ばれる表示回数をベースにしたものだったので、ウェブサイトの中に広告枠がどんどん設置されるようになり、ウェブサイトの空白部分を埋め尽くそうとしていました。バナー広告は、ウェブサイト内を埋め尽くすだけでは飽き足らず、スパム紛いのポップアップ広告が氾濫していくという自体にまで至りました。これらはすべて広告の課金モデルが表示回数ベースだったことに起因したと思います。
極めつけとして、とある総合代理店の方と話をしていた時にこんなことを言われてしまいました。「テレビは画面いっぱいに広告が出る。それなのにインターネット広告は画面の中のこんな小さな場所にしか広告が表示できない。これでは勝負にならない。ホームページに広告を画面いっぱいに表示させてジャックさせて欲しい」と言われてしまいました。ドラマのオンエア開始とかに合わせてトップページの検索エンジン以外全部広告の画像で覆われてしまうんです。あとは、上から紙吹雪みたいな何かが降ってきたり。
確かに広告を出稿する側からすると一理ありますが、ユーザーの利便性を著しく損なうもので、エンジニアからの評判はとても悪かったのですが、1日で数百万円以上の売り上げが立つ広告商品はそれしかないので、やっていかざるを得ませんでした。
Google日本語版がサービス開始「なんだこの空白だらけのサイトは!?」
佐藤:このように、インターネット業界全体がパソコンの画面をバナーで埋め尽くそうとしていた時に、Googleの日本語版(google.co.jp)のサービス開始に立ち会いました。Googleをひと目見て、「なんだこの空白だらけのサイトは!?」と強い衝撃を受けました。Googleのウェブサイトが検索ボックスを置いただけのきわめてシンプルなレイアウトで登場したからです。Infoseek、goo、AltaVistaなど、検索エンジンとしてスタートしたウェブサイトがポータルサイト化してサイト内の空白をバナーで埋め尽くしていくという流れに完全に逆行していたからです。

2001年4月のGoogle日本語版サービス
これは後で知ったことですが、このレイアウト自体がGoogleの思想を強く反映させたものでした。広告の収益を上げるためにポータルサイトが1秒でも長くユーザーをウェブサイトに滞在させようとしていたのに対し、Googleは1秒でも早くユーザーが求めている情報があるウェブサイトに誘導したい、と考えていたからです。そのため、トップページに余計なバナーは一切必要ない、というわけです。
この当時のGoogleの広告商品は、検索結果の上部に表示される「プレミアム・スポンサーシップ広告」(以下「プレミアム広告」)と呼ばれるインプレッション保証型のテキスト広告のみで、この他にバナー広告などの画像を使った広告商品は一切ありませんでした。「これ1本で収益化は大丈夫なの?」って思いました。この時点では今のGoogle広告につながる「Google AdWords」はまだなかったんです。一方で、広告によるウェブサイトのジャックだとかを考える必要がなく、検索エンジンビジネスにピュアにフォーカスできそうだからとても面白そうだな、と興味が惹かれました。

2002年3月のGoogleの「広告掲載について」に掲載された「プレミアム・スポンサーシップ広告」のサンプル出典:Internet Archive
佐藤:Infoseekのエンジニア達は自分たちで検索エンジンを開発していたにも関わらず、みんなGoogleを使い始めてしまいました(笑)。オフィスを歩くとエンジニア達のパソコンの画面がGoogleになっているのでよくわかったんです。自分たちも開発していただけに、みんな一瞬にしてGoogleの検索エンジンの技術力と精度の高さを理解したんだと思います。
Googleから声がかかり、本社で面接することに
佐藤:Infoseekが楽天に買収されてから、自社の検索エンジンの開発は今後中止ということが決まり、これから何をしていこうかと考えていた矢先にGoogleから声がかかりました。履歴書を送ると、本社がとても興味を持っているから直接アメリカの本社で面接を受けてくれと言われ、サンフランシスコ近郊のマウンテンビューのGoogle本社に行くことになりました。

佐藤さんが訪問した当時のGoogle本社オフィスがあった 2400 Bayshore Parkway
出典:©2025 Google画像 ©2025 Airbus, Maxer Technologies
金曜に休みを取って日本を発って向こうの空港に金曜の朝に到着し、そのままオフィスに行ってシャワーを借りて面接に臨みました。受付の天井から吊るされたモニターに世界中からの検索語句が様々な言語でリアルタイムかのようにスクロール表示されているのを見て、インターネット=検索なんだと強く感じました。検索サービスの醍醐味はこれなんだよ!ここに来るしかないって直感的に思いましたね。

受付に吊るされた剥き出しのモニターにスクロールしながら表示されている検索語句
出典:ETH Zurich (https://www.ethworld.ethz.ch/events/explore/study_trip/weblog_11/26.jpg)
Googleのオフィスの雰囲気はそれまでの一般的な会社のイメージと違って、ラバランプがあって、バランスボールがあってグランドピアノがあって、ゲーム機があって、リラックスした学校のような雰囲気で「何だこいつら、弾けてるな!」とシビれてしまいましたね。今でこそ真似をする企業はたくさんありますが、当時としてはかなり珍しいことでした。
下の動画は1999年頃のTGIF(Thanks God Its Fridayの略で、毎週金曜の夕方に行われるGoogleの社内ミーティング)の様子です。

佐藤:グローバルの営業を統括していたオーミッド・コーデスタニ(Omid Kordestani)に会うことになり、2階の部屋行っていろいろ話した後で、そのまま4人ほど会って面接しました。お昼はチャーリーズカフェで食事兼面接です。チャーリーズカフェは、今となってはシリコンバレーのスタンダードになってる社員食堂の走りです。シェフのCharlie Ayersさん GOOGLE TGIF 1999 video は、ロックバンドのグレートフルデッドの専属シェフの経験もあったようです。 カフェテリアを歩いていると「日本から来たのか?」とか声をかけてくれたりしてアットホームないい雰囲気でした。

Google AdWordsのサービス開始時に来日した米Google上級副社長オーミッド・コーデスタニ氏
出典:INTERNET Watch 「Google、オークション型広告「アドワーズ広告」を本格開始~落札価格×クリック率で掲載順位が決定」(2002年9月18日付)

Googleの56番目の社員として入社したシェフのチャーリー・エアーズ氏
出典:Chefcharlieayers.jpg is licensed under PDM 1.0

Charlie’s Cafe at 1999 Googleplex.mov
1999年のGoogleのオフィスのチャーリーズカフェの様子
佐藤:オーミッドから「Infoseekにいたんだよね? そういえばInfoseekの本社からGoogleに来て働いている人がいるよ」ということで紹介されたのが、第11話で自分のキャビネットを開けてアナログな広告の在庫管理方法を教えてくれた、あのバートでした。バートは「ここはライトプレイス(Right Place)」だと言ってくれました。というのも、Infoseekは日本担当の責任者が私が在籍していた時期だけでも9人代わっていて、マネージメントで随分苦労したのだと思います。多分それでここはいいとこだよって言ってくれたんだと思います。
その日はGoogle側で予約してくれた近くのブティックホテルみたいな感じのところに泊まって翌朝の飛行機で、1泊で帰ってきました。向こうの土曜日の朝で、こっちの日曜日の夕方に着くという感じで、月曜日から普通に出社するっていう強硬なスケジュールではありましたがとても充実した旅でした。
入社の決め手となったInfoseek時代の経験と検索ビジネスへの強い思い
佐藤:帰ってきてから分かったのは、結局このポジションってずいぶん大勢の候補者と会ってきたみたいだ、ということです。僕の後も何人も会っていたんだと思うんです。なので中々面接の結果が出てきませんでした。外資系出身で英語が堪能でMBAを持っているような人たちがたくさん受けていたみたいなんだけど、僕は検索サービスや広告の醍醐味は誰よりも理解していたつもりだったし、何よりもそこに対する情熱は半端なく大きかったので、Googleが提供しているサービスとビジネスは僕がやらずして誰がやるんだ、という強い思いを持っていました。
この時点でGoogleの日本法人にはすでに二人在籍していたのですが、時々訪問しては「まだ決まらないのですか?」と話に行くこともありました。彼らは、検索サービスや広告についてはあまり経験がなかったので、いくつかアドバイスをしたような記憶があります。僕は、Infoseek時代の経験から「そのキーワードだったらあそことあそこの広告主で、単価は10円くらいでやってたよ。あの代理店はこういうこと言ってきそうだよ、とかを経験に基づいて具体的に答えられたので、彼らからしたらとても助かると感じたのだと思います。こうした経緯で日本法人の現場からの強いプッシュもあって広告営業のセールス&オペレーション・ディレクターという役職でGoogleに入社することが決まりました。
オーミッド自身が現場の声を大事にするタイプのマネージメントで、さらに過去に「3DO」というゲーム機の販売のために長期間日本に滞在して仕事をしていた時期がありました。おそらくそういった経験から、日本の商習慣が欧米と違うこともよく理解していたので、日本の検索広告市場に詳しい私を採用するという決断に至ったのかもしれません。
2001年9月11日、ワールドトレードセンターに突入した飛行機の様子をTBSのnews23で見ていて大変なことが起こったと思った翌日が最終面接でした。渋谷のセルリアンタワーのレンタルオフィスの一室にオフィスがあったので、オーミッドとセルリアンタワーで朝食を取りながら最終面接を行い、2001年10月にGoogle日本法人の4番目の社員としてGoogleに入社することになりました。グローバル全体を通しても社員番号は400番台だったと思います。

入社して比較的間もない2002年下半期頃の佐藤さんとGoogle日本法人のオフィス
出典:『月刊ウェブクリエイターズ』2002年12月号(佐藤さん所蔵)
第2部メディアレップ編 完
次回の第18話から第3部検索連動型広告編が始まります。