杓谷技研というマーケティング支援会社の代表を務めております杓谷 匠(しゃくや たくみ)と申します。この記事では、アタラ株式会社会長の佐藤康夫さんのご協力のもと、2024年9月5日(木)に連載を開始した「インターネット広告創世記 ~Googleが与えたインパクトから発展史を読み解く〜」の第26話をお届けします。なお、本連載は、株式会社インプレスが運営するWeb担当者Forumでも同時に公開しています。
前回の記事はこちらです。
杓谷:前回のお話では、Yahoo! JAPANを巡るA/BテストではGoogleのAdWordsが勝ったものの、米Yahoo! Inc,.が米Overture本社を買収したことによって、Yahoo! JAPANの検索結果は100%Overtureのスポンサードサーチとなることが決定しました。その後、OvertureとGoogleは訴訟に和解し、GoogleはNASDAQに上場を果たすことになりました。
佐藤:1996年からインターネット広告を見続けてきた僕にとって、AdWordsはインターネットにおける広告の最適解を初めて提示した存在として映りました。そして、AdWordsが既存のインターネット広告はもちろんのこと、激しい争いを繰り広げた競合のOvertureのスポンサードサーチさえも変えていったのです。
「プレミアム・スポンサーシップ広告」のサービス終了
佐藤:Googleでは、AdWordsの成功をうけてインプレッション保証型の「プレミアム・スポンサーシップ広告」(以下プレミアム広告。第19話参照)のサービス終了を決定しました。
広告の出稿管理のオペレーションが疲弊していたので、営業チームの増員を進めていたのですが、採用した人が入社してすぐに社内でサービス終了の発表があり、「これから僕何すればいいんですか?」と聞かれてしまいました(笑)。日本では2003年末頃にサービスを終了しました。

2002年3月にGoogleの「広告掲載について」に掲載された「プレミアム・スポンサーシップ広告」のサンプル
佐藤:Googleは、プレミアム広告の営業チームをティム・アームストロングが、AdWordsの営業チームをシェリル・サンドバーグが統括していた(第20話参照)のですが、広告商品がAdWords一本になったため、大手広告主をティム・アームストロングのチームが、中小企業の広告主をシェリル・サンドバーグがそれぞれ統括していく体制になりました。この時の体制が大枠では今も続いています。

AdWordsの大手広告主の営業チームを統括することになったティム・アームストロング。後にAOL、OathのCEOを務める。
出典:Tim-Armstrong.jpg is under CC BY-SA 4.0

AdWordsの中小企業の広告主の営業チームを統括することになったシェリル・サンドバーグ。後にFacebookのCOOを務めることになる。
Sheryl Sandberg World Economic Forum 2013.jpg is under CC BY-SA 2.0
杓谷:第25話で登場したOverture日本法人代表の上野さんのお話を聞くと、Overture側でもインプレッション保証型広告の置き換えの動きがあったようです。AdWords、スポンサードサーチがインターネット広告史における歴史の転換点だった様子が見て取れます。
「サーチワード広告」をスポンサードサーチに置きかえる
上野:私がOverture日本法人の代表に就任した時に注力していたこととしてよく覚えているのが、提携先の開拓と「サーチワード広告」(第10話、第19話参照)をスポンサードサーチに置き換えることの2点です。
上野:Yahoo! JAPANはソフトバンクグループの資本が入っていたので、ソフトバンクグループとライバル関係にある会社は軒並みブラックリストに入っていて、Overtureの思うように業務提携をすることができませんでした。そこで、井上さんと話し合って「この企業やこのウェブサイトをブラックリストからホワイトリストに移して提携すると、月間でこのくらい売上が増えますよ」と言って説得することをたくさんやってました。
また、私がOvertureの社長に就任した頃は検索結果にインプレッション保証型の「サーチワード広告」がまだ出ていました。サーチワード広告を出した場合と外した場合でA/Bテストをしてみると、外した場合の方がスポンサードサーチのクリック率が高くなり、結果的にページ単位の売上が大きくなったので、「サーチワード広告」は止めましょうという提案をしました。ただ、Overtureとしての売上は増えますが、Yahoo!JAPANとしての広告の売上は一時的に減るように捉えられたので、最初はものすごく反対されました。ただ、最終的にはYahoo! JAPANとしての広告の売上もスポンサードサーチの方が「サーチワード広告」よりも大きくなっていったので、順次スポンサードサーチに置きかわっていきました。検索連動型広告の出始めの頃でしたので、広告枠が表示される場所の背景色は無地なのか、それともピンクやブルーが良いのか、といったことを検証するテストなどもずっとやっていましたね。

1997年1月のYahoo! JAPANで「ハワイ」と検索した時の検索結果に表示された「サーチワード広告」(第19話再掲)
杓谷:Yahoo! JAPANが検索連動型広告のシステムをOvertureに一本化した後の初めての決算報告で、Yahoo! JAPANの広告事業が過去最高益を記録したことが紹介されていますね。
出典:Internet Watch「ヤフーの第2四半期広告売上、猛暑とオーバーチュアとの連携で過去最高」(2004年10月20日付け)
佐藤:これまで、AdWordsとスポンサードサーチは、米国ではAOL、日本ではYahoo! JAPANを舞台に熾烈な競争を繰り広げてきたわけですが、パフォーマンスという観点では日米ともにAdWordsが勝利しています。その結果が競合のスポンサードサーチさえも大きく変えていくことになりました。
「品質インデックス」を導入し、第2世代「Panama」へ
杉原:2004年8月に検索連動型広告の発明を巡る特許論争が和解(第25話参照)をむかえたOvertureは、「品質インデックス」という名前でGoogleの「品質スコア」と同様の仕組みをオークションに取り入れていくことになりました。
杉原:検索連動型広告の重要な特許をめぐって争っていた相手が考案した仕組みを、ある意味では模倣するかたちになったわけですから、当時はプライドも何もかも捨てるような決断でした。ただ、それでもなお、今後Googleと戦っていく上では不可欠な一手だったのです。
このプロジェクトは「Panama」というコードネームで進められ、僕は日本市場における初代のプロジェクトマネージャーを務めることになりました。ただ、Overtureのシステムはベンチャー時代から場当たり的な拡張を繰り返してきた結果、いわゆる“超スパゲッティコード”(コードがツギハギ状態でこんがらがっている状態)になっており、機能の拡充が思うように進みませんでした。新機能を開発する柔軟性にも乏しく、現場ではかなりの苦労が伴いました。
技術的な課題の一つとして、「部分一致」の導入も非常に困難を極めました。
キーワード広告では、登録したキーワードと実際の検索語句との関係性を定義する「マッチタイプ」という概念があります。スポンサードサーチでは、当初は登録キーワードと検索語句が完全に一致する場合にのみ広告が表示される「完全一致」がデフォルトの仕様でした。
その後、より多くの検索語句に対応できるよう、キーワードに関連する語句にも広告を表示させる「部分一致」の導入に踏み切ったのですが、この実装が非常に難しかったのです。
たとえば、当時ブームだった『ハリー・ポッター』を例にとると、検索語句にはカタカナ、ひらがな、英字の大文字・小文字の違い、中黒の有無、さらには打ち間違いまで、実に多様なバリエーションが存在しました。Overtureではこれらのバリエーションを「マッチドライバー」という辞書機能に登録することで管理していましたが、検索語句は日々生まれ変わるため、どうしてもスピーディに登録しきれないケースが出てきてしまいました。
余談ですが、この「部分一致」を導入した際、広告代理店へ説明に伺ったところ、登録していないキーワードでも広告が表示されることに対して、主要な認定代理店の方々からかなり厳しいお叱りを受けたのを覚えています。当時は「検索ワード広告」といえば、キーワードと検索語句が完全一致するのが常識でしたので、「部分一致」はその常識を覆す、かなり挑戦的な機能だったのです。
最終的に、コードネーム「Panama」として進められたこのプロジェクトが日本で正式に始動したのは、2007年4月のこと。多くの試行錯誤を経てのローンチでした。
参考:INTERNET Watch「ヤフー井上社長、新検索広告プラットフォーム『Panama』は第1四半期に導入」
佐藤:Googleの場合はOvertureと違って検索エンジンを持っていたので、検索エンジンに打ち込まれる検索語句のデータを持っていました。そのため、こうした表記の揺れには最初から対応できていましたね。今では乱暴に聞こえるかもしれませんが、AdWordsのサービス開始時は「部分一致」のみで、オプションで「完全一致」の設定も可能だったと記憶しています。同じ検索連動型広告でもOvertureとGoogleでは最初からアプローチが違いましたね。Overture側のこうした取り組みを聞くと、この「品質スコア」をサービス開始時から投入してきたGoogleのエンジニア達の慧眼に改めて驚かされます。
杓谷:GoogleとOvertureで技術力、エンジニアリソースの差が少しずつ顕在化している様子が窺えますね。
「Yahoo! BB」のサービス開始でインターネット人口が飛躍的に増加
佐藤:第25話でお話した通り、2003年7月に米Yahoo! Inc,.が米Oertureを買収したことで、段階的にAdWordsの配信比率を減らし、2004年6月にAdWordsのトラフィックは完全に0になったわけですが、実はAdWordsの売上は年間を通してみてみればそこまで下がらなかったんです。その理由の一つは、ISP(インターネットサービスプロバイダー)の「Yahoo! BB」の影響でADSL接続によるインターネットユーザーが増加し、Googleのアクセス数も大幅に伸びていったことが挙げられます。
加藤:僕はISP事業者のインターキュー(現GMOインターネットグループ)のマーケティングに深く関わっていたので(第8話、第13話参照)、ISP事業者の広告を『iNTERNET magazine』(インプレス)などのパソコン雑誌に掲載しており当時のことをよく覚えています。
加藤:2001年6月に、ソフトバンクの孫さんが「Yahoo! BB」というISP(インターネットサービスプロバイダー)サービスを始めました。当時のISPサービスは月額約6000円程度が一般的な価格でしたが、Yahoo! BBは月額料金が2,280円という破格の価格で参入してきました。

出典:Internet Watch「Yahoo! JAPANがADSLサービスに参入 最大8Mbpsで月額2,280円から」(2001年6月20日付)
街角で販売員がADSLモデムを無料で配るという斬新な販売スタイルで契約数を伸ばし、インターネット人口が爆発的に増えていきました。その反動で、1990年代からのISP事業者の多くがサービス継続が困難になり、事業を終了していくことになりました。これ以降、インターネットビジネスの起業家達の間では「ソフトバンクがやるビジネスと同じ領域には手を出さないでおこう」という暗黙の了解が生まれました(笑)。
AdWordsとスポンサードサーチが既存のインターネット広告に与えた影響で言うと、クリック保証型広告(第12話参照)も「Pay Per Click」(クリック毎に課金)モデルに替わっていきましたね。

出典:Internet Watch「Yahoo!BB、本誌記者宅に導入してみました ~その1」(2001年7月31日付)
佐藤:インターネットユーザーが爆発的に増えた影響で、Googleや提携するポータルサイトの検索数も増えていったので、結果的にAdWordsの表示機会も増え、Yahoo! JAPANのトラフィックの減少をカバーしたんです。後に、Google本社の重役が来日した際に、「Yahoo! JAPANのトラフィックが0になった時に売上に大きな落ち込みがあったはずだが、どうやって乗り切ったんだ!? その秘訣を教えてくれ!」と尋ねられて「営業を頑張ったんです」と答えたのですが、実際にはYahoo! BBの間接的な影響も大きかったとも言えます(笑)。
2004年1月Googleが「AdSense」の日本市場参入を発表
佐藤:結果的に売上にそこまでの落ち込みがなかったとはいえ、Yahoo! JAPANをOvertureに取られた時点では大きなショックでした。ただ、僕にはそのショックを引きずっている余裕などありませんでした。ウェブサイトのコンテンツに関連した広告を自動で表示させて収益化する「AdSense」がサービスを開始したからです。Googleの次の主戦場は1990年代を通じてインターネット広告の主役だった「バナー広告」市場、現在における「ディスプレイ広告」市場に移っていくことになります。

出典:Internet Watch「Google、サイト向け広告配信プログラム「AdSense」の日本提供を公式発表」(2004年1月14日付)
第27話に続きます。