杓谷技研というマーケティング支援会社の代表を務めております杓谷 匠(しゃくや たくみ)と申します。この記事では、アタラ株式会社会長の佐藤康夫さんのご協力のもと、2024年9月5日(木)に連載を開始した「インターネット広告創世記 ~Googleが与えたインパクトから発展史を読み解く〜」の第6話をお届けします。なお、本連載は、株式会社インプレスが運営するWeb担当者Forumでも同時に公開しています。
前回の記事はこちらです。
杓谷:米国では1991年3月にインターネットの商用利用が解禁されました。日本では1993年11月に解禁されましたが、一般的に使われ始めたのは実質的には1994年からと言っていいですね。Appleの担当をしている間にインターネットの商用利用解禁に立ち会ったというわけですね。
佐藤:確か、「マルチメディア構想」という名前だったと記憶していますが、政府主導の構想があり、世の中的にもコンピューターやインターネットに取り組んでいこうという動きが少しずつ活発になってきていました。
1993年11月、日本でインターネットの商用利用が解禁
佐藤:当時、僕の会社の席に直通電話線を一本引いてもらっていて、MacのPowerBook Duoには内蔵モデムが入っていました。朝会社に行くとそこに電話線をカチャンと入れて、電話線でインターネットに接続する時の「ピーヒャララララ」っていう音が鳴り響くわけです。周りの人たちに「こいつ何やってるんだろう?」っていう顔をされていました(笑)。
AppleのPowerBook Duo出典:Powerbook duo 2300c.jpg is licensed under PDM 1.0
佐藤:その頃日本でウェブサイトを持っていたのは、自分の知る限りではNTTと、「エコシス」という会社のホームページ「富ヶ谷」の2つくらいでした。「富ヶ谷」という名前は、当時エコシスのオフィスが東京都渋谷区の富ヶ谷にあったことに因んで付けられた名前でした。
1996年12月27日の「富ヶ谷」出典:Internet Archive Wayback machine
伊藤穰一のコラムでインターネットの可能性に想いを巡らせる
佐藤:同じ頃、当時まだ30歳前だった伊藤穰一が書いたインターネットがもたらすであろう社会変革に関する連載コラムを読み、伊藤穰一の存在を初めて知りました。昔のことなので正確ではないかもしれませんが、そのコラムの中で伊藤穰一はインターネットによって下記の2つの変化が起こるということを明言していて強く感銘を受けました。
- 情報発信が誰でもできるようになり、個人がエンパワーメントされる
- すべての中間業者がなくなり利権が破壊される
インターネットがもたらす変化について語る伊藤穰一のビジョンの壮大さにびっくりしてしまいましたね。当時、日本のインターネットの父と呼ばれる慶應義塾大学の村井純教授がインターネットのインフラ面に関する情報発信を行っていたのに対し、伊藤穰一はインターネットで世界はこう変わる、という思想的な話をしていて、その考えに強く共鳴しました。世の中が大きく変わるんだ、と。インターネットに関する妄想が膨らむ一方でした。
杓谷:「すべての中間業者がなくなり利権が破壊される」は今見ても刺激的なフレーズですが、これから読者の皆様と一緒にインターネット広告の歴史を振り返っていくと、少しずつこの方向に進んでいることが実感できると思います。本連載の裏テーマとも言えるキーフレーズです。
佐藤:伊藤穰一氏の「個人の情報発信」と「利権の破壊」というインターネット革命の考察に深く共鳴したのは、Appleの革命精神と繋がりを感じたからです。
AppleのCM「1984」は、1984年のスーパーボウルで放映された、Appleの伝説的なCMです。ジョージ・オーウェルのSF小説『1984年』をモチーフに、当時のコンピューター業界を独占していたIBMを「ビッグ・ブラザー」に見立て、その支配から人々を解放するヒロインが登場するという内容でした。
杓谷:この記事は1994年頃の出来事ですが、翌1995年11月にMicrosoftがGUI(Graphical User Interface)を採用したOS、Windows95を発売します。GUIを採用したOSはAppleが先行していたので、AppleとしてはMicrosoftに真似をされた形になります。1984年に放映されたCM「1984」の約10年後に、IBM + Windows OSという構図で再び同じような状況になりましたね。
佐藤:Appleは、1987年に「Knowledge Navigator」というコンセプト動画を発表していて、コンピューターの中のコンシェルジュに頼むと来週のニューヨーク行きの航空券を予約してくれる、といった世界を描いていました。
インターネットの登場前は、「どうやってこれをコンピューターで実現するんだ?」と思っていましたが、コンピューターがインターネットにつながって、あのデータとこのデータをつなげられれば実現できそうだな。やっぱりインターネットは革命的だな、なんてことを考えていました。AIが登場した今、この動画のコンセプトはもはや現実のものになりつつありますね。
「日本のアニメ」をインターネットで全世界に配信しよう
佐藤:旭通信社でも、マルチメディア化に取り組んでいこうという全社横断プロジェクトが立ち上がり、国際部からは私が参加することになりました。通常の電話線を使ったデジタル回線のことをISDN(Integrated Services Digital Network)と呼んでいたのですが、従来のISDNでは難しかった動画なども伝送できる次世代規格「Broadband ISDN」が登場しました。
このBISDNで『ドラえもん』を配信する、といったアイデアが話されたのですが、インターネットが海の向こうでは凄い勢いで広がりつつあるのに話題に出てはこなかったので、結局、僕も含めて詳しい人達で企画を練ってプロジェクトの旗振り役の責任者に提案をすることになりました。
先程の伊藤穰一のコラムの影響もあり、「インターネットとはショールームであり、図書館であり、放送局である『Detabase Broadcast』だ!」(注:「Database Broadcast」は企画立案者達が作った造語)と説明し、アニメに強みを持つ旭通信社としてはインターネットを通じてアニメを全世界に発信するべきである、とぶちあげたら意外にも「じゃあやりましょう!」と企画が通ってしまいました。後に、これは”Broad”castじゃないな、と気づくのですが……。「で、ところでそれでいくらぐらい儲かるの?」と聞かれて「月々50万円くらいですかね?」なんて言ってました(笑)。
杓谷:今で言うNetflixのようなサービスを構想していたわけですね。当時は”Broad”というほどにはインターネット人口が多くなかったと思いますので、どちらかというと”On-Demand”の方が適切な単語だったかもしれませんね。
佐藤:結局、この全社横断プロジェクトはシステム部主導のプロジェクトになったのですが、システム部は最初から少し否定的な感じで、「こんなのビジネスにならないよ」と言われてしまいましたね。システム部がかける労力に対して成果が見合わないわけですから致し方ありません。
それでも、第4話で登場した氏家さんにホームページを作ってもらって、僕らはコミケとかに行って写真を撮影し、ホームページにアップロードしたりしていました。氏家さんは元々は映像作家だったのですが、これをきっかけにインターネット関連の仕事をしていくようになりました。僕が後にInfoseekに移った時もクリエイティブのスタッフとして氏家さんと契約していくことになります。
伊藤穰一、デジタルガレージとの出会い
佐藤:当時、BBS(Bulletin Board System の略。日本語で「掲示板」とも呼ばれる)を個人で立ち上げることができる「FirstClass」というソフトウェアがあったのですが、知人の会社に頼んで国際部にインストールしてもらい、海外支社とつなぎました。ダイアルアップ接続でしたがそれがもう面白くて(笑)。
その社内BBSには、仕事に関連する「◯◯の部屋」をたくさん作ることができたのですが、そこにコメントを残してもいけるし、仕事関連のファイルも置いていける、みたいな感じになっていて、メールでのやりとりもできるんだから便利でしょって言ったらみんな当たり前のように使うようになっていきました。
杓谷:今でいうと、SlackやChatworkのような感じですよね。社員の方しか入れない掲示板なわけですから。
佐藤:Appleの担当をする傍らそんなことをしているうちに、同期のひとりが研修旅行でニューヨークに行ったことを社内報で知りました。その社内報には彼が米国で見た広告業界事情が書いてあったのですが、そこにインターネット関連の話が書いてありました。そこで、その同期を掴まえて「国際部はすでにこうやって海外支社とネットワーク構築して仕事してるんだよ」と話をすると、「これからはインターネットだよな」などと盛り上がりました。「伊藤穰一ってすごいよね〜」と話をすると「俺、伊藤穰一知ってるよ。紹介しようか?」ということになって、当時伊藤穰一が設立に関わったデジタルガレージに僕も出入りするようになりました。
デジタルガレージはフロムガレージという広告会社を運営していた林郁さんと伊藤穰一が、デジタルの時代に可能性を感じて設立した会社です。後になってわかったことですが、デジタルガレージはこの当時、伊藤穰一と一緒に米国のYahoo!を日本に持ってくる話を創業者のジェリー・ヤンと進めていました。結果的にYahoo!はソフトバンクの孫正義を選び、ソフトバンクの傘下でYahoo! JAPANを展開していくことになります。
デジタルガレージとしては、本命のYahoo!を孫正義に取られてしまったので、その代わりとして、同じくポータルサイトで、当時としては先進的なロボット型の検索エンジンを開発していた「Infoseek」を日本に持ってくるという方針に切り替えました。
こうした状況下のデジタルガレージに遊びに行くと、バイリンガルで20歳そこそこの若い外国人エンジニア達がインターネット技術に深く取り組んでいました。彼らは先程の「富ヶ谷」のウェブサイトを作っていたエコシスのメンバーで、エコシスは伊藤穰一の会社だったんですね。また、デジタルガレージには日銀出身の中村隆夫氏がCFOとして参画していて当時ニュースになりました。中村隆夫氏は、後に伊藤穰一と共著で『デジタル・キャッシュ: eコマース時代の新・貨幣論』という本も出版しました。「こいつらなんかカッコいいな、未来を切り開くワクワク感満載だな!」と強く思いましたね。
佐藤:デジタルガレージに行って話をした後に旭通信社に帰ってくると、インターネットの話をしても感度が鈍い社内の空気とのギャップを強く感じてしまいました。
コンペに負けてAppleのチームが解散に
佐藤:インターネットに関する妄想が膨らむ中、Appleの仕事を大きくしたいと考えていたのですが、Appleの意向で大手総合代理店を交えたコンペをすることになりました。第4話に登場した氏家さんに依頼してアップルコンピュータのアニメCMを作ってもらってプレゼンに臨んだのですが、現場の担当者にはとても好評だったものの、結局は大手の広告代理店に持っていかれてしまい、1994年の年末に旭通信社のAppleのチームは解散することになってしまいました。