杓谷技研というマーケティング支援会社の代表を務めております杓谷 匠(しゃくや たくみ)と申します。この記事では、アタラ株式会社会長の佐藤康夫さんのご協力のもと、2024年9月5日(木)に連載を開始した「インターネット広告創世記 ~Googleが与えたインパクトから発展史を読み解く〜」の第1話をお届けします。なお、本連載は、株式会社インプレスが運営するWeb担当者Forumでも同時に公開しています。
前回の記事はこちらです。
1970年代、経済が急成長していく中で過ごした学生時代
杓谷:佐藤さんは旭通信社に入社したことをきっかけに広告業界に足を踏み入れたわけですが、ご入社された当時はどんな様子だったのでしょうか? 広告業界を選んだきっかけを教えてください。
佐藤:東京外国語大学のイタリア語科を卒業し、1982年に旭通信社に入社したわけですが、僕が学生時代を過ごした1960年代、70年代は今にして思えばまだまだ経済的に発展途上の時代でした。
穴あきジーンズなんてファッション的には今も流行っていますけど、この頃の穴あきジーンズは本当に他に着るものがなく穴が空いていました。ロン毛だってただ床屋に行く金がないから長いだけで、ファッションとしてやっていたわけではなかったのではないでしょうか(笑)。
それが変わっていったのは、商社や自動車業界の隆興の影響です。日本社会が高度経済成長時代に入り豊かになっていき、『Japan as Number One: Lessons for America』という本が出るまでに至りました。
日本語訳の『新版 ジャパンアズナンバーワン』
出典:Amazon
杓谷:『Japan as Number One: Lessons for America』は、日本の高度経済成長の要因を分析し、日本的経営を高く評価している内容の本で、圧倒的な経済大国のアメリカが一目置くべきポイントがある、というところまで日本経済が成長したことを表す象徴的な本として広く知られていますね。日本社会が目に見えて豊かになってきたわけですね。
佐藤:僕は学生時代にバンド活動をしていて音楽にのめり込んでいたのですが、日本経済が豊かになっていくと、音楽もフォークから反骨のロックを経て、「フュージョン」というジャズを基調にロックやラテン音楽、電子音楽、時にはクラシック音楽などを融合(フューズ)させた音楽のジャンルが流行っていくなど変化していきました。AOR(Adult Oriented Rock)というジャンルが生まれ、都会的で洗練された音楽が流行っていきましたね。フュージョンバンドのカシオペアとかが出てきたのがこの頃です。
『Casiopea』 / CASIOPEA
出典:Amazon
杓谷:そもそも、エレキギターやシンセサイザーなどの電子楽器を人前で演奏するにはアンプやエフェクター、ミキサーなど高価な音響機器が必要なので、フュージョンは経済が豊かにならないと実現できないジャンルの音楽と言えるかもしれませんね。日本社会がだんだん豊かになってきた様子が音楽からも読み取れます。
佐藤:そういった時代の流れに若い知性が反応して、1980年に田中康夫が小説『なんとなく、クリスタル』を発表して話題になりました。田中康夫は僕より一個上で、一橋大学の学生だった時期にこの本を発表したのですが、この本が出た時は同世代の僕らもびっくりしてしまいました。当時の流行を牽引していた雑誌『POPEYE』『Hot-Dog PRESS』で紹介されているような服や雑貨がたくさん登場する小説で、比較的裕福な若者にしか理解できないブランドやレストランの名前が目白押しで、都会的で洗練された生活が描かれていたからです。その一歩前は吉本隆明などの思想色の強い作品が流行っていた頃なので、こうした小説が出てきたことにとても驚いたわけです。
新装版 なんとなく、クリスタル (河出文庫)
出典:Amazon
杓谷:『なんとなく、クリスタル』は、各ページの末尾に小説本編に登場する服や雑貨のブランドなどの脚注がこれでもかと記載され、この脚注自体も文学作品の一部となっています。都会的で、記号的消費社会の到来の象徴的な作品として文学史に名を残していますね。モノそのものだけでなく、モノに付随するブランドイメージなどをいかに身にまとうか、といったことが新鮮だったわけですよね。日常生活を送る上での物資に不自由しなくなったからこそできる生活スタイルと言えるかもしれません。
佐藤:こうして日本社会が豊かになっていく中でも、1ドル220円という時代でもあったので、やはり舶来品、海外のブランド物は特別な価値があるものでした。1ドル220円では滅多に海外に卒業旅行なんて行けないですよね。
外大生の強みを活かして就職活動を始めたものの……
佐藤:このような時代背景の中で東京外語大学にいると、必然的に海外との関わり、ということが就職活動の軸に入ってきました。自分の中では大手〜中小という軸と、海外〜国内という軸で就職活動を考えていました。
佐藤:同級生の多くはマトリックスの右上の大手・海外という枠の会社に就職する人が多かったと思います。私は東京外国語大学のイタリア語学科に在籍していたのですが、イタリアに工場がある大手企業が多かったので、実際に自動車メーカーなどに就職した大学の先輩達から一本釣りで声がかかってきました。卒業生の多くはそうした大手メーカーの海外部や大手商社、あとは公務員系でJETROとか海外との接点がある就職先が多かったですね。
杓谷:この時代の大手自動車メーカや商社の存在は、現代の学生に人気の外資系の戦略系コンサルティング会社や投資銀行などに匹敵するのかもしれませんね。
佐藤:そうした一般的な進路が学校生活の延長のように感じられて、私は同級生とは少し違う考えを持っていました。マトリックスの左上に位置する中小の商社に入り、「20代後半までに実務を全て覚えて独立する、という夢があってもおもしろいのではないか」と考え、その道を探ってみることにしたのです。当時の就職活動には次のような3つの選択肢がありましたが、その中から従業員50人以下の商社を調べて、実際にコンタクトを取り、訪問しました。
当時の就職活動は、先輩からの紹介で来るものと、リクルートのような就職斡旋企業から送られてくる図鑑みたいな雑誌、大学の学生課にある求人情報、この3通りですが、その中から50人以下の商社を調べて、実際にコンタクトを取って行ってみたりしました。
杓谷:私の世代では、就職支援サービスと言ったら真っ先にリクルートの「リクナビ」を思い浮かべますが、当時はその「リクナビ」の前身にあたる『リクルートブック』や『日経就職ガイド』といった図鑑のような雑誌が主要な情報源だったんですね。
左:『リクルートブック’81』の表紙1980年9月刊行(筆者所蔵)
右:『リクルートブック’81』の旭通信社の記事(筆者所蔵)
『日経就職ガイド1981年版』電通、博報堂のページ(筆者所蔵)
佐藤:ところが行った感覚でいうと、今なら優秀なイケてるベンチャーはたくさんあって、当時もそういうのはあったと思うんだけど、見つけるすべがないわけです。いくつか中小企業の商社を見学して思ったのは、就職雑誌に出ているのは結局は大きい会社の下請のようなところが多く、なんか違うなと思うようになりました。だったら大手商社とかそっちの方に就職した方が良いかな、と就職活動の軸が少しぐらついてきてしまいました。
糸井重里の登場に刺激を受けて広告業界に興味が向かう
佐藤:丁度その頃、個人的にテレビCMがすごく面白くなってきていました。コピーライターの糸井重里が出てきたからなんですが、西武百貨店の「おいしい生活」などの名キャッチコピーが生まれたころで、『宣伝会議』などを読んだりしているうちになんとなく広告業界が良いなあと思うようになりました。
杓谷:西武百貨店の「おいしい生活」は、1982年にコピーライターの糸井重里が考案したキャッチコピーですね。映画監督のウディ・アレンが起用されたことでも知られ、「おいしい生活」の「おいしい」という言葉は、たいして汗をかかずに利益が得られるというような意味を指していて、今で言う「コスパ」の意味に近いかもしれません。オシャレで洗練された生活が手軽に手に入る西武百貨店にぜひお越しください、ということですよね。1990年代では、テレビで芸人が体を張った芸でいじられると「(何もしなくてもウケるなんて)おいしいなぁ〜」なんて言葉がよく聞かれましたが、そういえば最近は聞かないですね。
糸井重里は、西武百貨店の他にスタジオジブリ作品のコピーなども手掛けていることで有名ですね。ウェブサイト『ほぼ日刊イトイ新聞』や、ゲーム『MOTHER』シリーズの制作など、その活動は多岐に渡りますが、元々はコピーライターとしての活動が出発点でした。『宣伝会議別冊「コピー・パワー」』など、1980年前後の広告業界の専門誌を見ると、いかに彼が注目されていたかがわかりますね。
『宣伝会議別冊「コピー・パワー」』で特集される糸井重里(筆者所蔵)1980年6月刊行
佐藤:広告業界の中でいくつか企業を探してみると、旭通信社という会社を発見しました。『ドラえもん』『巨人の星』『エイトマン』など、子供の頃から熱心に見ていた有名なアニメ番組をたくさん制作していて、大手ほどの規模じゃないけどおもしろそうな会社があるなと思ったわけです。それでちょっと心が動いてしまって、説明会とか聞きにいったりすると、同じように受けにきた人同士で「あの広告面白いよね!」と盛り上がっていて、これは活気があって楽しそうだなと感じました。
ところが、他業界の会社に行くとそこまで熱量高く業界について話している人はいないわけです。なので、広告の方にだんだんと気持ちが傾いていくことになりました。こういう方が自分には向いているのかなと思うようになって、広告業界に飛び込んでみようと決意しました。
杓谷:つまり、慣習的になんとなく大手企業に行くのではなく、自分で探し当てて旭通信社を発見し、これからテレビの全盛期を迎えようとしている時代の広告業界に飛び込んだわけですね。
アニメを武器に自ら道を切り拓く旭通信社との出会い
佐藤:テレビ局の番組広告枠は、基本的には大手総合代理店がすでに広告枠の大部分を買い付けて押さえています。テレビ局側からすると、広告代理店が広告枠を買い切ってくれたほうが売れ残りがなくなりますし、万が一広告主が広告費を支払えなくなっても広告代理店が費用を先に払っているので、テレビ局側に取りっぱぐれがありません。不動産の保証会社的な役割を果たすことができたので、こうした商習慣になっていったのだと思います。
また、広告主から直接発注を受けるとコミュニケーションが煩雑になるため、広告代理店が一括管理してくれる方が有り難いという効率性の側面もあったのではないでしょうか。
そういった背景から、テレビCMの発注は広告代理店を通すということが一般的になり、保証会社的な機能を果たせるだけの経済的な基盤がある大手広告代理店しかテレビ局などの媒体社との取引口座を持てない、という形に発展していきました。広告主、広告代理店、媒体社の3者のニーズが合致して出来上がった業界の仕組みだったわけです。逆に言うと、それができたからこそ大手広告代理店は大手になりえたと言っても良いかもしれません。
旭通信社が面白いなと思ったのは、そういった大手広告代理店に割り込んでいくにはどうしたら良いかということで、アニメなどのテレビ番組の企画をテレビ局に持っていき、19時のアニメ番組の広告枠をあらかじめ買い付けて押さえるということを積極的に行なっていました。主に玩具メーカーやお菓子メーカーにその広告枠が売れていくわけですが、そういった形で少しずつテレビに食い込んでいけるようになっていきました。
『8マン』『スーパージェッター』『マジンガーZ』などから始まって、僕が入社した頃に新人研修のときに見せられたのが『宇宙刑事ギャバン』でした。僕が入社する数年前に『ドラえもん』が始まって、伝説とも言える「ドラえもん景気」が到来したそうです。『ドラえもん』が当たったものだから、すごい会社の業績がよくなって、新卒でもボーナスがすごくいいとか、そういったことが起きたそうです。アニメ以外で言うとタモリが司会をした『今夜は最高!』も旭通信社が企画していたと記憶しています。
こういったテレビ番組の企画は「ラテ企」(「ラジオ・テレビ企画」の略)という部署が行なっていて、非常に興味はあったのですが、海外向けの広告宣伝をやっている国際部も面白そうに見えました。自分も変わったところに身を置きたい性格なので、海外向けの広告ってどんなことやっているんだろう? と思ったので「配属先は国際部志望です。」と会社に伝えると、案の定そっちを選ぶ人って全然いなかったので、希望通り配属されることになりました。
第2話に続きます。
※1:この連載では、記事に登場する出来事を補強する情報の提供を募っています。この記事に触発されて「そういえばこんな出来事があったよ」「このテーマにも触れるといいよ」などご意見ご要望ございましたらこちらのフォームにコメントをいただけますと幸いです。なお、すべてのコメントに返信できるわけではないことと、記事への反映を確約するものではないことをあらかじめご理解いただけますと幸いです。
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